荒野の野良犬(5)

 広い地下室の四方に設けられたスピーカーから低い、地を這うような重低音が断続的に吐き出されている。心音よりも僅かに早いペースで打ち鳴らされるベース音は、この環境に慣れない人間を緊張させる作用があるのじゃないかと柳沼は常々思っていた。
 薄暗い室内は霧がかかったように曇っている。煙草の煙だ。酒の匂いは、人とすれ違う時にだけ漂ってきた。
 どこから始まってどこで終わるのかも判らない音楽に体を揺らす者も、身を寄せ合って話していたかと思うと急に大きな声で笑い出す者もいる。殆ど、国籍も年齢も一見して判り難いような身なりを崩した者ばかりだった。誰も彼も、感覚を麻痺させたように虚ろで楽しそうな表情をしている。
「お、宇佐美じゃん。久しぶり」
 短く刈り上げた髪を白く脱色した男が、制服姿の宇佐美を気安く叩いた。宇佐美はクラスメイトに向けるのと一分たりとも変わらない笑顔で応じる。ひどい騒音に阻まれて、彼が何と返したのかは、すぐ後ろを歩いている柳沼にも聞こえなかった。
「ヤギーもお祝いに来たの?」
 背後から突然圧し掛かられて、柳沼は思わず宇佐美の肩を掴んだ。
 耳元でいきなり聞こえた甲高い声は、この寂れた地下室でも一際目立つ。ツバメの声だった。
「こんにちは、――……お祝いって、何のことですか」
 背中に押し当てられる大きな乳房の感触をひとまず引き剥がそうと、柳沼の肩より低い位置にあるツバメの頭を抑えながら、身を反転させる。
 彼女はいつも柳沼の姿を見つけるたびに、何故か気配を殺して背後に忍び寄り、飛び掛ってくるのが常だった。誰に対してもそうなのかと思っていたら、柳沼に対してだけなのだそうだ。
「お祝いに来たんじゃないの? ないとーちゃんから話聞いて来たんでしょ」
 小さな身体に不釣合いなほど長く伸ばした髪の先を揺らしながら、ツバメは宇佐美と柳沼を交互に見比べた。
 大きな眸はくりくりと動いてまるで小動物のようだし、いつも軽く前に突き出されたような唇は淡く色づいて艶めいている。こんな地下室には似合わないような溌剌とした表情の絶えない彼女の両腕には、点々と注射の痕が残っていた。それを掻き消そうとするかのように自傷が重ねられていて、柳沼は初めて彼女の姿を見た時に、どうして長袖の上着を着ないのかと尋ねた。
 その質問が、彼女はいたく気に入ったらしい。
 以来、ツバメは柳沼をヤギーと呼んで戯れついてくるようになった。
「詳しくは聞いてないんですよ。来たら、話してくれるって」
 柳沼の腕に絡みついたツバメを見下ろした宇佐美が答えると、ツバメはへー、と間の抜けた声を上げて急に柳沼の腕を引き始めた。思いがけず強い力で連行されると、柳沼の足が思わず縺れる。
「ないとーちゃん、こっちだよ」
 柳沼が声を上げるよりも先に、ツバメは嬉々として地下室の奥へ歩を進めた。
 年上のはずのツバメには少し幼いところがある。意図してそうしているのか、それとも彼女の薬用している薬がそうさせているのか、あるいは彼女がもともと持っている性質なのかを、柳沼は知らない。
 ただ彼女に捕まれたら最後、離して貰えるまでは黙って言いなりになるしかないということだけは知っている。
 この地下室の主は内藤だが、その内藤でさえ、ツバメがこうと決めたら口を出せないところがあるからだ。
「ヤギー、今日ガッコーは?」
 気だるげなリズムで踊っている男や、互いの腰に腕を回してキスを繰り返しているカップルを容赦なく押し退けて、ツバメは進んでいく。
 内藤がいつも好んで座っているカウチがどこにあるのかなんて柳沼も宇佐美もよく知っているが、ツバメはそこまで自分が連れて行きたいらしい。
「行きましたよ。今日は、その帰りです」
 長い黒髪を左右に揺らしながら、時折背後の柳沼を振り返るツバメの様子は無邪気で、微笑ましくもある。柳沼は、唇が綻んでいくのを感じた。地上で再会した小野塚のことなど、もう忘れていた。記憶に残しておくことも面倒だ。
「ガッコー楽しい?」
 か細い腕で柳沼の手を引きながら、甲高い声で楽しそうに話すツバメには、女性を感じた。
 恐らくツバメ自身も柳沼に対して自らの性別を意識しているだろうし、周囲からも、柳沼に対するツバメの態度は女性らしさを感じていることだろう。宇佐美にそう揶揄されたこともある。
 柳沼は、ツバメが大嫌いだった。

 
「おう、来たか」
 ツバメに連れられた柳沼が先に顔を見せると、趣味の悪い派手なカウチにふんぞり返った内藤が破顔した。
 坊主頭に黒いキャップを被って、大きな身体に更にサイズの大きめの服を着けている。煤けたように黒い肌とあわせると、内藤が黒人文化に焦がれていることは誰の目にも明らかだ。
「ないとーちゃん、ヤギーもお祝いに来てくれたよ」
 唯一、目を凝らす必要なく周囲の人間の顔が見える程度に照明の効いた一角に入って、ようやくツバメの細い指が柳沼の制服から離れた。
 胸ばかりやたらと大きいくせに、手足はまるで餓鬼のように骨ばっている。やはり彼女の身体はほとんど薬に害されているのだろう。
「もう一人いるんですけどね」
 後を黙ってついてきた宇佐美が顔を出すと、内藤は大きな声で笑った。ツバメが小走りにカウンターへと引き返して、何か飲み物を注文している。
 この地下室で、柳沼も宇佐美も金を使ったことはなかった。
 咽喉が渇いたと言えばジュースでも酒でも内藤が用意してくれたし、食事だって摂ろうと思えばご馳走してくれた。しかしここにいる人間がみんな、そんな待遇を受けているわけじゃない。内藤はここで高い金額の飲食を提供することで生計を立てているところもあるんだから、当たり前だ。
 宇佐美と柳沼は特別だった。
 内藤の言葉を借りて言うなら、仲間、ということだった。
 もちろん柳沼にその気はない。宇佐美にはあるのかどうか知らないが。
「それで、良い報せっていうのは何ですか?」
 宇佐美は手近にあった鉄製の椅子を引くと、息を吐きながら腰を下ろした。
 背筋を伸ばして掛けるその様子は、クラスで見るような礼儀正しさと少しも違わない。眦の下がった甘い表情も、見慣れたものだ。
 宇佐美には二つの顔がある。柳沼はそう感じて宇佐美と一緒に行動することを選んできたが、実は違うのかもしれない。
 宇佐美にはいつも一つの表情しかない。ただ、それを見る人間が宇佐美を善と見るか、悪と見るかの違いがあるだけだ。
「まあ、そう急くなよ。――おいツバメ、祝杯だぞ、判ってるんだろうな」
 髪をビリビリと震わせるほどの重低音を切り裂いて、内藤の声がカウンターまで響く。それに呼応するように、ツバメの高音が、ハーイ、と返ってきた。
「あまり長居はできませんよ。この後、予備校があるんです」
 宇佐美が腕時計を見下ろして長い足を組む。学歴なんてよほど不釣合いなこの地下室で、そんなことを言うのは宇佐美くらいのものだ。内藤はまた大きな声で笑った。
「柳沼はどうだ、お前は優秀なんだから予備校なんていかねぇんだろう。今日はとことん飲むぞ」
 内藤の分厚い手が柳沼を招くように振られた。
 酷いなぁ、と宇佐美が苦笑を洩らす。宇佐美だって、必要があって予備校に通ってるわけじゃない。対外的な理由に他ならない。
 程なくしてツバメが盆に載せたグラスを四つ運んでくると、それぞれが琥珀色の液体を宙に掲げた。
「――実はな、うちのバックにプロがつくことになった」
 内藤の黄色がかった眸が、濡れたように光る。
「プロ、」
 思わず柳沼は復唱した。グラスの淵にはツバメが運んでくる時に零したウイスキーの雫が伝ってきて、手首まで流れてきた。
「そうだ。堂上会系松佳一家と、パイプができた」
 内藤の表情は真剣で、誇らしげでもある。傍らでじっとしているツバメも珍しく神妙な表情をしている。
 柳沼は宇佐美の表情を窺った。
 いつも表情を変えない宇佐美の頬が、僅かに紅潮しているように見えた。