荒野の野良犬(4)
風の強い日だった。
当時、柳沼は他のクラスメイトと大して変わらず髪を短くしていて、有名美容室で施術を受けているらしい宇佐美のほうが襟足が長いくらいだった。
突発的に吹き降ろす風に制服のジャケットをはためかせながら、柳沼は職員室での教師の様子を宇佐美に話していた。
高校から電車で二駅。空を覆う商業ビルの立ち並ぶ街には、いつもビル風が渦巻いている。
柳沼は、校内では決して見せないような大口を開けて笑う宇佐美の傍らで話を終えると、慣れ親しんだ路地に足を向けた。
ビル風も入り込まないような薄暗い道だ。
昼間だというのにやたら底冷えするようで、奥にぽっかりと口を開けているのは小汚い雑居ビルの地下室へ続く入り口だった。階段の下から、腹に響くような重低音が聞こえている。
この店は朝になっても昼になっても、この音楽を絶やすことがないのだという。人も常にひしめいているし、なるほど清掃されてないのだとすれば、扉の向こうに入った途端気が滅入るような匂いが充満しているのも肯ける。
この店は一応個人の住宅ということになっているらしく、営業法にも引っかからなければ保健所の手入れもないのだと聞いたが、相当むちゃくちゃな話だ。
「それで、今日は何があるんだって?」
路地に入れば、数人の気だるげな外国人の間をすり抜けて、ところどころ朽ち錆びた金属製の階段を通り、店の入り口に辿り着く。柳沼はそれまでにこの新鮮な空気をたっぷりと吸い込んでおこうと、歩調を緩めて深呼吸した。
「さあ、俺も良くは知らない。何か良いことがあったみたいだけど」
遅れをとった柳沼を振り返って宇佐美が双眸を細める。
宇佐美が内藤に心酔しているとは思えない。内藤は柳沼たちよりも8つほど年上だが、あまり賢い男には見えないからだ。以前も大ニュースだと騒ぎ出して、宇佐美と柳沼が駆けつけてみれば宝くじが当たっただの、人生で30人目の女ができただのと拍子抜けした記憶がある。
憎めない男かもしれないが、見掛け倒しという言葉がお似合いだ。
「良いことね」
柳沼はここまでのこのこついてきてしまったことを後悔し始めながら首を竦めると、宇佐美の後に続こうとした。
その時、
「伶!」
背後からの声に、思わず足を止めた。
聞き覚えがないといえば、嘘になる。
「伶」
もう一度聞こえたかと思うと、柳沼は気安く肩を叩いた手を即座に振り払った。
その反動で振り返ると、頭一つ上の位置に驚いたような表情が安穏とぶら下がっていた。
背後で宇佐美が柳沼の様子を窺っているのが判る。
柳沼は、心音が強くなっていくのを感じていた。緊張している。
「ああ、やっぱり」
奴は言った。
近くを通り過ぎる女性たちがスカートの裾を必死で抑えるほど風が強く吹いているのに、柳沼の目前にはそんなことを微塵も感じさせないような暢気な笑顔が浮かんだ。
どこか頭の螺子が一本抜けたような顔だ。
柳沼はこの男の表情が、大嫌いだった。
「伶に似てるなぁ、と思って追いかけてきたんだ」
「柳沼」
路地に入りかけた宇佐美が、柳沼の強張った肩を小突くようにして戻ってきた。
自分が指先まで硬直していたことを自覚して、柳沼は生唾を飲み込んだ。過剰反応だ。
「誰?」
宇佐美は声を低くして、柳沼にだけ聞こえるような小声で尋ねた。柳沼の反応を見て警戒しているのかもしれない。しかし、訝しむような色がその声に含まれている。どこからどう見ても人畜無害そうな男のなりは、こうしてみると宇佐美に似たものを感じる。
ただ宇佐美と決定的に違うのは、この男は本当に人畜無害だということだ。
「――……何でもない、……昔の知り合いだよ」
柳沼は浅く息を吐いて男から視線を逸らすと、宇佐美の肩を押した。
今、この男の前で内藤の店に行くことは避けたかった。辺りを一周回ってから、出直そう。そう言うつもりだった。
「伶のお友達? 初めまして、小野塚です。伶とは小学校の時に――……」
しかし、柳沼の横をすり抜けて宇佐美に握手を求めた腕が、伸びた。
「!」
宇佐美がそれを握り返す前に、柳沼はその手を掴んだ。
宇佐美はそれを握り返さないかもしれない。相手の本質が判らない以上、無難に握り返すかもしれない。どっちにしろ、不快だ。
「余計なことを言わなくていいよ」
宇佐美に向かって伸ばされた腕を無理やり引き下げて、柳沼は小野塚を睨み付けた。
最後に会ったのは4年も前のことだ。小野塚の腑抜けた笑顔は変わってない。柳沼は変わっただろうか、4年前と、今とでは。
「小学校の時の。……ってことは、小野塚さんもいいところの坊ちゃんなんですね」
下唇を噛んだ柳沼を揶揄うように、宇佐美が口を開いた。
小野塚に対してどういう態度を取るのか決めたらしい。つまり、いつもの通りの好青年でやり過ごすつもりのようだ。さっきまでこの薄暗い路地に入ろうとしていたことなど、なかったことにする気だ。
宇佐美の薄い微笑みに一度目を瞬かせた小野塚は、すぐに大きな唇を半月状に開いて、笑った。たまたま彼の背後を通りかかったサラリーマンが振り返るような大きな笑い声だった。
「はは、まぁ、否定はしないけど」
柳沼は掴んでいた小野塚の腕を地面に投げつけるような勢いで離すと、苛立たしさを覚えて踵を返した。
それはそうだ、小野塚は人に言って恥ずかしくないような名家の息子だ。隠すようなことじゃない。家柄に愛され、環境に愛され、友人に恵まれ、金銭に困ったことも一度もない。今までの人生の全てが輝かしいばかりの人間だ。臆するところもなければ後ろ暗いところもない。
だからそんなに阿呆面で笑っていられるのだ。
「宇佐美、行くよ」
柳沼は塞いだ心の内側が黒く翳っていくのを感じながら真っ直ぐ路地に向かった。
背後で、宇佐美が小野塚に丁寧に別れを告げている声がする。
ビルの隙間を抜けて吹いてくる風は湿り気を帯びて、生ぬるい。どうやらこれはただのビル風じゃないようだ。雨が降る予感がしていた。