荒野の野良犬(3)

 宇佐美とは、入学以来の付き合いだった。
 名もない公立中学校からこの有名進学校へ入学し、突然成績上位者に名前を上げてきた柳沼に、宇佐美は一学期の中間テスト後にすぐ声をかけてきた。
 宇佐美は柳沼よりも順位が下がるものの、それでもお互い十本の指に入る成績だった。
 最初は、宇佐美も他の生徒と同じように柳沼の素性が知りたくて近付いて来ただけかと思っていた。
 塾や予備校が一緒だとか、中学校が同じだったとか、全国模試で上位に名を連ねていただとか、誰かしら繋がりのある人間の多いこの学校で、柳沼は異質だった。入試の結果で振り分けられる初のクラス編成で、成績優秀者だけが籍を置くAクラスに放り込まれた柳沼のことを、海外からの帰国子女だと言う噂もあったほどだ。
 恐らく中には、小学校で柳沼を知っていたものもいたのかもしれないが、少なくとも同じクラスになったことはなかった。
 名家生まれのぼんくらばかり集めた小学校と違って、成績が優秀でそこそこ小金があれば入学できる高校は、正に競争世界だった。自分の将来にそれなりの野望を自覚し、親族からの期待も意識せざるを得ない世代だ。そんな中で得体の知れない柳沼に声をかけてきた宇佐美もまた、変わっていた。
 一見すると、小学校時代によく見たようないわゆる恵まれた環境で育ったお坊ちゃんのように見えた。それならば、柳沼に対する僻みや敵対心がない様子も理解し易い。実際、宇佐美は身なりを小奇麗にしていて人当たりのいい笑顔を振り撒き、誰とでも分け隔てなく鷹揚に接する好青年だった。
 髪はいつも短く切り揃えられていて、歯並びのいい口元を大きく開いてよく笑う。何かとギスギスしやすい成績上位者の中で、宇佐美は余裕たっぷりだった。彼がもう少し本気になればもっと上に食い込んでくるのだろうと恐れる人間が多かったのも肯ける。
 中には、家柄が良いだけじゃなく実際に頭が切れる上に家柄にも恵まれているという人間は確かに存在する。宇佐美もその部類の人間なのかもしれない。だとしたら、柳沼は宇佐美と親しくなることを避けたかった。
 宇佐美がどんな血筋の人間かは知らないが、下手を打って柳沼のことを知られても面倒だ。積極的に隠す気はなかったが、とにかく、面倒だった。柳沼の過去を知ったところで宇佐美がどう感じるかなんてことは知らない。当時、柳沼にとっては後ろを振り返ること自体が億劫で仕方なかった。
 何が気に入ったのか、ことあるごとに柳沼の傍にやってくる宇佐美が特に上流階級の出身じゃないことを知るまで時間はかからなかった。それでも、ただの能天気な好青年なのだと思っていた。多少柳沼の肩の力が抜けただけで、それでも友人だと思ったわけではなかった。
 二年生に進級して、修学旅行を迎えるまでは。

「今日、内藤さんの店行く?」
 宇佐美の手から鞄を受け取って歩き出すと、宇佐美は柳沼の後に続きながら声を潜めることもせずに言った。
 思わず、苦笑が漏れる。
 職員室でどんな会話が交わされていたか、まるで知っているかのようだと感じた。
 いくら宇佐美が察しのいい男だからといって、超能力者なわけじゃない。あるいは、前もって職員室に盗聴器でも仕掛けていたというなら話は別だし、宇佐美ならやっていてもおかしくはないけど。
「どうしようかな」
 昇降口に出て革靴に履き替えながら、柳沼は赤く染まった屋外の空を覗き込んで首を捻った。
 別に、教師に言われたことを気にしているわけじゃない。柳沼が否定をしたことで、職員室でその話はもう終わったことになっているだろう、真実がどうであっても。また、柳沼を見かけたという人物が存在することについても特に思うところはない。具体的な証言をすれば、その人間だって同じ穴の狢だということになる。
「俺は行くけど」
 傷一つない革靴に足を通した宇佐美は、思いを巡らせる柳沼を見遣って双眸を細めた。
 並んで立たなければ判らない程度だが、宇佐美の方が柳沼よりも視線が僅かに高い。柳沼は宇佐美のその独特な笑顔に見下ろされているような気分になって、首を竦めながら視線を逸らすと校舎を出た。
 宇佐美がそんな風に穏やかに微笑む時は、決まって愉快なことがある時だけだ。
「期待していいんだろうね」
 背中越しに声をかけると、宇佐美が声を上げて笑うのが聞こえた。
「もちろんだよ」
 仕方がない。
 柳沼は宇佐美の笑い声に釣られるように口元を弛ませると自宅に向かう駅とは別の方向へ足を向けた。