荒野の野良犬(19)

 再び病院の天井に瞼を開くと、底冷えするような夜になっていた。
 寝ても覚めてもどちらが現実かも判らなくなるような、鮮明で不快な夢ばかり見るのは薬の中毒症状の一つだ。結局、どちらも逃げようのない現実であることに変わりない。
 柳沼はしっかりと首元まで布団をかぶって眠っていたらしい。ベッドの脇に小野塚の姿はなかった。滅多に人が座ることのない椅子も片付けられている。本当に小野塚がいたのかどうか、今となっては信用できない。あれが夢だったか、あるいは幻覚だったのかもしれない。
 それでも、こんな風に肩口までしっかりと布団を押し込んでいく看護士に会ったことはない。禁断症状と苛立ちで暴れる柳沼を拘束する医師や看護士はいるが、絶対に寝乱れないようにと念を込めるように布団を押し込んでいく人間はいない。
 息苦しいくらいにしっかりと包まれる布団の縁に手をかけて緩めると、そこにはまだ小野塚の手の温もりが残っているような気がした。
 夜も何時を回ったのかは知らない。カーテンが引かれた窓の外から差し込んでくる月の光に、相変わらず病室は青白い。朝日が昇ったら、看護士に頼んで部屋の名札を書き直してもらうつもりでいた。
 汚職事件の政治家が何泊入院するつもりなのかは知らないが、小野塚本人や、小野塚を知る人間が出入りするこの病院で、小野塚の名前を騙るわけにはいかない。
 小野塚はまたこの病室を訪ねてくれるだろうか。柳沼がどうしてこんな病院に入院しているのか知られたくないし、禁断症状の発作に苦しんでいる姿を見られたくもない。
 だからこそ、小野塚がまた来るかもしれないと思えば柳沼は平常心を保っていられるような気がした。
 小野塚の前でみっともない姿を見せるわけにはいかない。
 布団の縁を握りしめて柳沼は再び瞼を落とした。次はもう、悪夢を見ないような気がする。何の保証もないけど、また眠って起きた時に朝になっていれば、小野塚を待つことができる。もし看護士に認められれば、自分から病院内を歩いて小野塚を探す事だって。
 自分は少しも心配など要らないのだと、小野塚に知らせてやることができる。
 一度押し下げた布団を口元まで引き上げて柳沼が大きく息を吸った時、ふと廊下で物音がした。
「奏?」
 仄明るい廊下から、柳沼の部屋を覗く人影が見えた。
 思わず声に出して尋ねてから、ばつの悪い思いで口を塞いだ。そんな風に呼ぶのは子供の頃以来だ。半身を起こして、なかなか入ってこようとしない人影に目を凝らす。
 ようやくゆっくりとが開いたかと思うと、そこにいたのは、宇佐美だった。
「どこかで見た名前だなって暫く考えてた」
 息を呑んだ柳沼を気にも留めず、宇佐美は扉の前の名札を指しながらゆっくりと室内に入ってきた。
 どこからどう見ても青年実業家かと思うようなこざっぱりしたシャツを着て、穏やかな表情を浮かべている。
「昔一度だけ会ったことがあったよね、ええと――……そうだ、内藤さんの店の前で」
 見舞いにしては時間が遅い。面会時間はとっくに終わっているはずだ。宇佐美は暗い部屋に明かりもつけず、まるで何事もなかったかのように柳沼のベッドに近付いてくる。
「奏、とか呼ぶような仲だったっけ。俺が調べた限りじゃ、参議院議員の小野塚先生の息子だったように記憶してる」
 柳沼の言葉を待たず、淡々と言葉を紡ぐ宇佐美は柳沼のベッドまでやって来ると椅子も引かずにベッドへ腰を下ろした。月明かりに、その爽やかそうな笑顔が浮かび上がる。
「やあ、久しぶり」
 宇佐美に最後に連絡したのは、茅島から椎葉法律事務所の事務員について探して欲しいと言われた時だった。これがチャンスなのかと思った。
 椎葉と茅島の気持ちが通じたのだと悟った時から、いつか茅島が隙を見せるだろうと思っていた。柳沼が逃げ切れないほど大きな油断を曝け出す日が来るのだろうと。かくして、茅島は柳沼に人選を任せた。
 椎葉法律事務所で募集をかけるという情報だけだったら、柳沼には見て見ぬ振りもできたかもしれない。しかし、茅島は柳沼を信頼し、柳沼に一任した。宇佐美を送り込む他なかった。
「お互い下手を打ったね」
 涼しい顔をして宇佐美は柳沼のベッド越しに嵌め込み式の窓を覗いた。
 柳沼がどうしてここに閉じ込められているのか、宇佐美は知っているのだろう。どうしてこうなったのか全て知っていて、訪ねてきたのだろう。つまり。
「……能城さんには」
 尋ねる声が震えた。
 茅島が柳沼をここに隠したのは、柳沼の薬を抜くためでも、能城から隔離するためでもあったことは判っている。裏切った相手にそこまでされるのは侮辱以外のなにものでもなかった。それでも能城から逃げ切れるなら。このボロボロの身体でも、この先ひっそりとどこかに隠して生きていけるなら。そう思った。
「まだ知らせてないよ」
 知らず、震える拳を握り締めた柳沼に宇佐美はふと笑いを零した。
 弾かれたように、宇佐美の顔を仰ぐ。
「柳沼がどんな目に遭わされてきたのか、聞いた」
 窓のから視線を伏せた宇佐美の顔に、影が落ちる。そんな表情を見たのは初めてだった。
 宇佐美にしてみたら、能城は今でも命の恩人なのだろう。その能城が柳沼にしてきた仕打ちを知って、宇佐美がどう感じたのか、想像するだに複雑だった。
「俺たち、友達だろう。柳沼が能城さんとの関係を終わらせる気なら、能城さんにこの病院のことは言わないでおくよ」
 そっと肋骨の上を撫でた宇佐美が、静かな声で言った。
 柳沼は、暗がりを見つめた宇佐美の顔に目を凝らした。
 不意に、修学旅行の夜を思い出す。柳沼は宇佐美を友達だと思ったことはない。きっと、宇佐美だってそうだ。
 しかし柳沼が一度だけ宇佐美に友だという言葉を使ったことがある。その時、柳沼は初めて覚えた興奮にぞくぞくしていた。
「……なぁ、柳沼」
 宇佐美の声が暗い病室に響く。
 ゆっくりと、宇佐美が柳沼に顔を向けた。
「お前、松佳の公衆便所だったんだろう?」
 宇佐美の笑顔には裏表はない。
 宇佐美が残酷なことを考えながら微笑んでいても、見る人間にそれを気付かせなければただの好青年にしか見えないからだ。
 心臓を鷲掴みにされたように息を詰めた柳沼がベッドを転げ出ようとすると、宇佐美の腕が伸びた。長い髪を掴まれて、捕らえられる。
「ッ!」
 容赦なく引き戻された柳沼がベッドを軋ませて横臥すると、宇佐美が圧し掛かってきた。
「何で俺に黙ってたんだよ」
 宇佐美の影が柳沼の目の前を覆う。顔を背けようとすると、髪を乱暴に引かれて操り人形のように自由を奪われた。
「俺が薬をやらないからか? 能城さんは俺には、薬が必要ないって言ってくれたんだよ。薬がなくても、俺は役に立つからってね」
 宇佐美が、密着させた身体を擦り付けてくる。今、宇佐美が笑っているのかどうか見ようとは思えなかった。いくら能城でも、薬を入れない状態で犯されたことはなかった。
「ッ……!」
 拒絶の言葉を吐くのも口惜しい。静かな室内に、柳沼が小さく呻く音と衣擦れの音だけが響いた。
 身を捩りながら腕を伸ばし、ナースコールに手を伸ばす。その傷だらけの腕を、宇佐美に押さえつけられた。
「俺の肋骨。――……折ったのは、あんな能無しのチーマーなんかじゃないよ。能城さんだ」
 掴み上げた柳沼の手を無理やり自分の脇腹に押し当てた宇佐美が、低く笑い声を漏らす。柳沼は思わず目を開いた。
「まるで拷問さ。一本一本、丁寧に爪を剥がされながら俺は能城さんに忠誠を誓わされたんだ。柳沼のことも、その時に話した」
 腹に宛がった柳沼の手を弄らせながら、宇佐美はどこか恍惚とした表情を浮かべていた。当時のことを思い出しているようだった。柳沼の手の下で皺一つなかったシャツがめくれ上がって、宇佐美の素肌が触れる。しかし、暖かさは感じなかった。強く握られたせいで痺れてしまっているのかもしれない。
「……脅されて、いたのか」
 柳沼が薬を投与されていたように、宇佐美は暴力で。眉を顰めながら柳沼が尋ねると、宇佐美は目を瞬かせた。驚いたような表情だった。
「まさか。――柳沼と一緒だよ」
 そう言った宇佐美が、柳沼の手を自身の下腹部に向かわせた。
「っ、! 止めろ、……よせっ」
 宇佐美は勃起していた。能城に嫌というほど繰り返された行為がまざまざとよみがえってきて、柳沼は腕の骨が折れても良いという気持ちで無理やり身を引いた。ベッドのシーツを蹴り、肩をばたつかせる。
 宇佐美はそれを体の重みで押さえ込むように、身を擦り付けてきた。
「柳沼だって能城さんのセックスが忘れられないから言うことを聞いていたんだろう? 俺だって同じだよ。あの人の暴力が忘れられなくてずっと傍にいるんだ」
 柳沼の手に宇佐美の熱が扱かれて、熱を帯びていく。柳沼は悲鳴が上がるのを堪えて下唇を噛み締めながら、自由になる一方の手で宇佐美の肩を力いっぱい押した。薬のせいで体力のなくなった細い腕では思うように跳ね除けられない。宇佐美の息遣いが荒くなっていく。粘ついた液体が、柳沼の指に絡みつきはじめる。
「嫌だ、ッ……宇佐美・っ!」
 胃液が込みあがってくる。まるでフラッシュバックのように能城とのことが浮かんでくる。感触も味も、匂いも伴って。
「能城さんにどんな風に奉仕したのか聞いてきてるんだ、嫌がって見せるのもポーズの内なんだろう? これからは能城さんの代わりに俺を楽しませるんだ、――なぁ、俺たち友達だろう」
 宇佐美が柳沼の非力な腕をベッドに押さえつけて、戦く表情を覗き込んだ。笑っている。柳沼を絶望に突き落とすような、暗い微笑だ。
「……、――」
 全身の力が抜けていく。
 だから何度も死にたいと願ってきたのだ。茅島を殺さずに終えるなら、自分が死ぬしか、もう逃げ場はない。
 柳沼がうつろな視線を背けると、宇佐美は首を竦めて笑った後で行為を再開させた。濡れた柳沼の手を一度引き抜き、柳沼の上に跨りなおす。
 その瞬間、宇佐美の体が横様に飛んだ。
「ッ?!」
 派手な音が響いて、宇佐美がベッドの下に転がり落ちた。驚いて、目を瞠る。
「友達?」
 そこに立っていたのは、小野塚だった。
 開いたままの扉から入ってきたのだろう。仕立ての良いスーツのジャケットを脱ぎ捨て、珍しく口端を大きく引き下げている。
「――伶の友達は、俺一人で充分なんだよ」
 腰に手をあてて胸を張った小野塚は、そう言って柳沼の前に立ち塞がった。