荒野の野良犬(20)

 しばらく呆然とその後姿を眺めていた後で、柳沼は慌てて身体を起こした。寝間着の乱れを直して、床に転げ落ちた宇佐美を覗き込むと頬を押さえて蹲っている。
「――……、奏」
 次いで半信半疑で小野塚の姿を仰ぐと、小野塚は宇佐美を殴りつけた右手の拳を押さえて、ふと柳沼を見下ろした。眉尻が下がって、情けない笑顔を浮かべる。
「初めて人を殴った。……なかなか痛いものだね」
 逞しくなったようでも、小野塚は変わっていない。
 やはり、小野塚が来るとこの病室は少し暖かくなるようだ。薬の影響で体が冷たくなって仕方のない柳沼でも、小野塚に温められているように感じる。
「ってぇ……」
 床から、宇佐美の呻き声が聞こえた。我に返った柳沼がそれを覗き込もうとすると、小野塚の腕で制される。宇佐美に向き直った小野塚の顔はやはり、笑っていなかった。
「――あんた、小野塚議員の息子だろう?」
 床の上を起き上がった宇佐美が、地を這うような声で笑っている。
「あぁ」
 小野塚は堂々と胸を張ったまま、宇佐美の不気味な笑顔にも臆する様子なく短く肯いた。
 柳沼は、息を詰めた。ただでさえ事件に巻き込まれているっていうのに、さらに自身の暴力事件なんて明るみに出たら、小野塚の人生が台無しになる。
 どうする、どうすればいい。
 柳沼は冷えた指先でシーツを握り締めながら俯いた。頭が働かない。薬のせいなのか、ショックのせいなのか、焦っているからなのか判らない。体が冷たいのに汗ばかりかく。薬の中毒症状と同じだ。口惜しくて、胸が詰まった。
「暴力事件なんて、ニュースの種になるな。ちょうどここは病院だ、診断書でも取っておくか」
 大袈裟に頬を摩りながら宇佐美が笑うと、小野塚はゆっくりと大きな動作で腕を組んだ。僅かに身動いた小野塚の仕草に、宇佐美の肩がびくついたのが判る。
「それで?」
 深く俯いた柳沼のはるか頭上で、小野塚が小さく鼻を鳴らす。小野塚の顔を見上げたのは、宇佐美も柳沼も同じだった。
「議員の息子だろうと議員秘書だろうと、関係ないよ。そんなことより、惚れた相手がいつまでも苦しい思いをしているのを見過ごしていたことのほうが問題だ。仕事なんて、他にいくらだってある」
 逃げも隠れもしない、と言い捨てた小野塚の様子を、宇佐美は嘲笑いながら腰を上げた。その表情が引き攣っている。同じように裏表のない両者でも、柳沼の目にはまるで違って見えた。
「そうか、……じゃあ望み通り訴えて差し上げるよ。あんた自身が良くても、親は大失脚だな。それに、あんたが自分のことで手間取ってる間に柳沼は俺たちの組に逆戻りだ! 前と同じように、公衆便……」
「覚えておきなさい」
 隣の病室まで聞こえるような声で喚いた宇佐美の顎に、小野塚の手が伸びた。片手で掴み上げて、口を塞ぐ。宇佐美に詰め寄った小野塚の顔は、柳沼からは影になっている。ただ、大きく目を見開いた宇佐美の表情だけが見えた。
「この国は政治家が動かしてるんだ。……君たちのような暴力団を生かすのも殺すのも、造作ないことなんだよ」
 低くくぐもった、小野塚の声。
 思わず柳沼の背筋も竦み上がるようだ。
「……もちろんそんな事はしないけどね。代議士は裁判沙汰の一つや二つ、揉み消すくらい朝飯前だ。その辺の一般人とは違う。下らない恫喝なんてするだけ時間の無駄だよ」
 宇佐美の顎を、放り出すように離した小野塚が、汚れたものでも触れていたように掌を軽く払う。小野塚から開放された宇佐美に言葉はなく、二歩ほどよろめいて、黙り込んだまま生唾を飲み込んだ。
「政治家を敵に回すなんて考えは止めておいたほうが良い。その辺の暴力団よりよほど、たちが悪いからね」
 これは一般論として、と付け加えた小野塚の声はいつも通りだった。
 

「……あれが、政治家も奇麗事ばかりじゃないってことなの」
 朝日が昇ってきた。
 小野塚の手で何事もなかったかのように綺麗に整えられたベッドの上で大人しく寝かされた柳沼は、窓の外の白んでいく空を眺めながら尋ねた。
「さあ、どうだろう」
 答えた小野塚は何故だか、照れくさそうにしている。
 確かに小野塚の言う通り、国家権力と張り合ったら暴力団だって不利になるに決まっている。だから無駄な争いを避けたがる暴力団は多い。忠義や仁があれば話は別かもしれないが、たかが柳沼一人のために面倒ごとを抱え込もうとするようなことはないだろう。
「伶」
 窓の外で小鳥が囀っている。決して開けることのできないこの分厚い窓ガラスの向こうの物音なんて、聞こえないのだと思っていた。だけど今朝は、よく聞こえる。
「ここを退院したら、どこへ行くつもり?」
 小野塚の手が、布団の上へ伏せられた柳沼の手の上へ一瞬の躊躇の後、重なった。
 柳沼は小野塚の顔を振り向こうとは思わない。徐々に外が明るくなっていく。病院内も少しずつ目覚めていくようだ。じきに朝の検診が来るだろう。何度それを繰り返したらここから出られるのか、判らない。
「……さぁ、どうしようかな」
 本当にいつか出られるのかも判らない。
 一生ここに幽閉することが茅島の目的かも知れない。そんなことをする理由がなくても、柳沼をここに閉じ込めたことを忘れてしまうかもしれない。
「俺と一緒に暮らそう」
 小野塚に握られた手が、ぴくりと震えた。
 それでも柳沼は、その顔を振り向くことはできなかった。小野塚が今どんな顔をしているのか、判らない。
 以前なら、どうせまた腑抜けたような顔で微笑んでいるのだろうと思えたが、今は違う。
 小野塚には裏表がないと思っていた。言い換えれば、柳沼は小野塚のことを何でも知ったような気になっていたのだ。
 ――惚れた相手だなんて言葉は、今夜初めて聞いた。
 ずっと知らなかった、小野塚の一面だ。
「伶、こっちを向いて」
 焦れたように、小野塚が握った手を揺すった。
「――……もう寝るよ、疲れたんだ」
 顔を覗き込まれないように首を捻った柳沼が布団を引き上げようとすると、小野塚の消沈した雰囲気だけが伝わってきた。
 本当は少しも眠くはならない。それでも柳沼が布団をかぶってしばらく押し黙っていると、小野塚は柳沼の握った手をゆっくり解いた。慌ててそれを、握り返す。
 小野塚が驚いて息を呑んだのが布団越しにも判った。
 今はまだ、どんな顔をしていいのかもどんな話をしていいのかも判らない。
 ただ、次に柳沼が目を覚ました時も小野塚に傍にいて欲しいと思う。もしそれを口に出して伝えれば、小野塚はそれで充分だと言うかも知れないけど。