荒野の野良犬(18)
「あ、柳沼さん起きた」
目が覚めると――こっちが夢なのか、それともあの病院生活が夢なのかはもはや判らないけど――モトイと暮らした、あのマンションのベッドの上だった。
モトイを拾って間もなく購入したこのマンションは、立地も間取りも、ほぼ母と暮らしたかつてのマンションに酷似していた。わざわざ同じ物件を探したのだから当然だ。
「モトイ」
重い体をベッドの中で横臥させ、腕を伸ばすとモトイは飼い主に呼ばれた犬のように駆けて来た。柳沼の言葉を待って目を輝かせている。
「僕はどれくらい寝ていたの」
ベッドの脇で膝をついたモトイに手を差し出すと、すかさずベッドサイドのミネラルウォーターが差し出された。教えた通りだ。
「えーと、柳沼さんが寝たのは一時だから……」
半身を起こして室温になった水を口に含むと、乾いた口内を洗い流す。アナログ時計の針を指先で確認しながら、モトイは柳沼を振り仰いだ。
「……二時間!」
自慢げな表情だが、カーテンを閉め切った窓の外はもう充分に明るいようだ。柳沼が眠ったのが一時だとすれば、十四時間眠っていたことになる。薬が切れてきた証拠だ。
柳沼は苦笑して、ミネラルウォーターをモトイに返した。
「今度、モトイのためにデジタル時計を買ってあげようね」
ペットボトルを受け取ったモトイの頭を、空いた手で撫でる。モトイは自分の誤りにはまだ気付いていないようだ。訝し気な表情で首を捻った。
「なんで?」
「モトイは時計が読めないでしょう」
彼が本当に読めないのかどうかは関係ない。ろくな教育を受けてこなかったのは本当のようだが、愚かなふりをして柳沼に頼っている部分だってきっと真実だろう。それがモトイの裏の顔だ。
「柳沼さんが教えてくれたら読めるようになるよ」
柳沼に頭を撫でられて上機嫌になったモトイが、ベッドの上の柳沼の膝に顔を伏せた。そうしているとまるで、本当に犬が懐いているようだ。
愚かなふりも、可愛い子のふりも、柳沼のために躊躇なく暴力を振るってくれるのも、全て柳沼に愛されたがっているのが透けて見える。
モトイは柳沼がいないと生きていけない。
彼はきっと、今柳沼が死んでくれと言ったら喜んで死ぬだろう。モトイ自身もそう言っている。あの時柳沼に声をかけられなければ自分は死んでいたのだから、自分の命は柳沼のものだと。
「柳沼さんが俺に何でも教えてよ。柳沼さんのために、俺なんでもするから。きっと、役に立つよ」
役に立ってもらわなければ困る。
白く脱色されたモトイのごわついた髪を撫でながら、柳沼は瞼を伏せて微笑んだ。
モトイがここまで柳沼に懐いてくれたのは予想外だったが、きっと彼は柳沼の愛情を欲しがれば欲しがるほど、残虐になってくれるだろう。
きっと何もかもぶち壊して、柳沼のために血だらけになってくれるのに違いない。返り血をたくさん浴びたモトイを、柳沼は抱きしめてやろう。きっとそれだけで、モトイは満たされるだろう。
「そう、じゃあまずは着替えを持ってきてもらおうかな」
おしまい、と言ってモトイの肩を叩くと、モトイはすぐに顔を上げた。
「柳沼さん、どっか行くの」
モトイの表情が翳った。きっと彼にも予想はできているのだろう。前回からきっかり一ヶ月と少し。自分なりにできるだけ用量を抑えてみたつもりだったけど、それでも数日しか引き伸ばすことはできなかった。
「能城さんのところへ」
さあ、取っておいでとモトイの肩を押し遣ると、モトイは下唇を噛んで不安そうな表情を見せた。それでも、行けと命令を重ねると渋々クローゼットへ向かって行く。
モトイが柳沼の身を案じているのか、それとも単に一人で夜を過ごすことが嫌なのかは知らない。
能城の事務所へ行った晩、柳沼はほとんど帰ってこないことが多いことをモトイだって知っている。それでも朝に慣れは上機嫌で帰ってくるんだからいいじゃないかと、柳沼はモトイの落胆した背中を笑い飛ばしてやりたかった。薬の足りない今の身体ではそんな自嘲も難しかったけど。
そう、気が重いのは事務所に行くまでの間だけだ。
行ってしまえば、能城に会ってしまえば薬で何も判らないようになる。後で冷静になれば吐き気を催すようなことでも、思い出さないように薬を飲めば楽になれる。
別のルートで薬を入手する方法だって考えた。しかしそのたびに松佳一家の取締りに遭って能城の足下へ引き戻された。
裏の社会はどこも蜘蛛の巣のように繋がっている。どこかで柳沼が震えていれば、能城は薬を持ってやって来る。対価は女の代わりに奉仕をすること。一ヶ月に一度柳沼を陵辱することなんかで能城が満足するはずもないのに、ただ貶めるためだけに能城は柳沼を公衆便所のように「使用」した。
それだって薬を服用していれば、どんな風に扱われたって気にならなくなる。薬が切れれば、何もかもが耐えられなくなる。それだけは御免だ。
それでも、能城はここのところ機嫌がすこぶる良いようだった。茅英組に入った柳沼が若頭の地位まで駒を進めたせいだ。
松佳一家の組長を能城が押し出したように、柳沼にもいずれ茅英組を乗っ取ってもらえれば話が早いと身体を揺らして笑っていた。
事実茅島は、自分には敵が多いから何かあれば柳沼に任せると言っていた。
しかし柳沼は、それを能城には伝えなかった。
「能城さんはこちらにいらしてますか」
銀座の高級クラブのボーイを捕まえると、柳沼は抑えた声で尋ねた。
開店間もないクラブにはコンパニオンたちの白粉の匂いが充満している。まだ客の少ない店内には、柳沼が高校生だった時分の女性の顔など一人もいなかった。あるいは、彼女たちが風俗嬢でしかなかったなら、もしくは能城に全て食い物にされて薬漬けになっていたなら、いないのも当然のことだ。
能城は覚醒剤を使用した人間を犯すことが趣味だった。薬でもなければ人を満足させることのできない男なのだろう。
「はっ、……あ、柳沼さん」
重そうな灰皿を落としそうになったボーイの手元を、支えてやる。にわかに緊張したボーイは一度喉を鳴らすと、大袈裟に頭を下げて詫びた。
「オーナーは今日はまだいらしていないと思いますが……すみません、お約束でしょうか?」
純朴そうな青年だった。柳沼は緩く首を振ると、ボーイの肩を叩いた。
能城は約束なんてしたことがない。一度はそのせいで他の中毒者と鉢合わせになって複数プレイを強いられたこともあった。以来、能城は柳沼の訪ねてくる不測の日を楽しみにしているようだった。
あるいは毎月同じ日に訪ねて行けば、もっと非道い用意をされているのかもしれない。どちらに転んでも、結局は同じ目に遭うだけだ。柳沼が薬を断つか、命を絶たない限りは。
「いや……約束はしてないんだ、気にしないで。僕が訪ねてきたことは、誰にも言わないようにね」
柳沼はいつも言い残すセリフを告げてボーイの元を離れると、店を出た。
店にいないとなれば、能城は事務所にいるのだろう。
事務所にいくのは面倒で、気が引ける。茅英組の若頭が松佳一家の事務所に出入りすること自体深読みされてしまいがちだし、何よりも事務所へ行けば他の組員がひしめいている。何人もだ。
「いらっしゃいませ」
重い溜息を飲み込んだ柳沼の背後では、クラブに客が入ったようだった。さっきのボーイの落ち着いた声が聞こえる。柳沼が後にした店が、にわかに活気付いた。
「先生、お待ちしておりました」
店の奥から女性の声も重なる。一等地の高級クラブだ、それなりの客がつく店なのだろう。柳沼は何気なくその声を振り返ると、目を瞠った。
「っ!」
小野塚だった。
議員バッチをつけた老人の傍らで、静かに佇んでいる。店の中から出てきた煌びやかな女性コンパニオンには視線一つくれようともせず、天に向かって背筋をぴんと伸ばして。
凛とした姿だった。
その顔に柳沼がいつも見ていた暢気そうな表情はなく、知的で、堂々としている。
老いぼれた議員の手を取って店に入る瞬間、小野塚は周囲の様子を伺うように視線を走らせた。
「!」
互いに、息を呑んだのが判った。
伶、次の瞬間には小野塚がそう呼びかけてくれるような気がした。今までのように。
何年も離れていても、再会すればいつも小野塚は変わらない笑顔で柳沼を呼ぶ。どんなに時が経っていても、柳沼をあの小さい頃に引き戻すように、無垢な声で。
「柳沼さん」
しかし、次の瞬間柳沼を呼んだのはモトイの声だった。
振り返ると、携帯電話を手にして立っている。人前に出ても恥ずかしくない格好をさせているとは言え、高級店の並ぶ街の風景からは浮いたカジュアルな装いで、スーツを着けた柳沼に仕えている姿は、堅気には見えないだろう。モトイも、柳沼も。
柳沼は、一度小野塚を振り返った。
気分が悪い。薬が切れかけているのだ。貧血にも似た症状がおきかかっていて、倒れそうだ。今小野塚に助けを求めたら、逃げ出せるだろうか。薬から。能城から。
「柳沼さん」
議員を店の中へ促した小野塚は、柳沼を振り返りながらも踵を返してクラブの中へ入っていく途中だった。
呼びかけてはくれない。昔のように。
柳沼がずっと無視していたのだから、当たり前だ。
「ねえ、柳沼さ、……」
「どうしたの」
柳沼は、店の戸が閉まる前にモトイに向き直った。
自分の責任で地獄に堕ちたのだから、小野塚に助けてもらおうなんて虫が良すぎるのだ。それに今柳沼が逃げ出せば、モトイはどうなる。棄てていくわけには行かない。
「こんなところまでお前を呼んだ覚えはないよ」
柳沼は店に背を向けて歩き出した。努めて何でもないように、能城の事務所に向かう。何でもない。こんな気持ちも、薬を飲めば忘れてしまう。
「うん、ごめん……でも、今日帰ってくるのかなと思って、」
「帰らないよ」
柳沼はモトイを振り返らずに、言い捨てた。
店で会えるならまだしも、事務所まで行ったら能城は帰してはくれないだろう。別に初めてじゃない。これからもきっとそうだろう。能城がいつか飽きても、組員は入れ替わり、立ち代る。
「さっき茅島さんから電話があって、それで用があるって」
眩暈がする。
スーツの中はひどく汗をかいていて不快で、体が重い。以前も薬を切らしかけて、幻覚を見たことがあった。自分以外の人間が大きな蟲に見えて、気が変になりそうだった。
「柳沼さん、茅島さんが呼んでるんだよ」
能城の事務所はここから歩いて十分はかかるだろう。踏み出す足の一歩一歩が重くてたまらない。背中から追ってくるモトイの声は耳障りに感じるし、頭痛もひどい。
タクシーを呼び止めようにも、腕が上がらない。足下のアスファルトが柔らかいものになったかのようにふわふわとして、立っていられない。
「柳沼さ」
「煩い!」
気がつくと、柳沼は叫んでいた。
息が苦しい。胸を太い杭で貫かれているようだ。
振り返ると、モトイが萎縮した様子で口を噤んでいた。周囲の視線がこちらを向いている。しかしどの顔もぐにゃぐにゃと歪んで見える。柳沼は、掌で顔を覆った。
「……モトイ、タクシーを止めてくれない」
苦しい。掌で塞いで俯いた顔から、汗の雫が滴り落ちる。
「柳沼さん、大丈夫? 具合悪いなら病院に行ったほうが良いよ。茅島さんには言っておくから――……」
タクシーに手を上げながら、蹲りそうになる柳沼の肩に手を伸ばしたモトイを、柳沼は突き飛ばした。
「お前が僕に意見をするな! 誰がお前を拾ってきて、まともな生活をおくらせてやってると思ってるんだ!」
二言目には茅島茅島なんて、あれは殺すべき標的だ。組長として慕ったことなど一度もない。慕ってはならない。いつか殺さなくてはいけない。どうしても、殺さなきゃ終われない。
目の前で停車したタクシーの後部座席に転がり込むように乗車すると、歩道に尻餅をついたモトイが追い縋るように立ち上がった。モトイが乗り込む前に、扉を閉める。盛大な音を立てて手動で戸を閉めた柳沼を、運転手が怯えたように振り返った。
「お前は僕の所有物なんだ、黙って僕の言うことを聞いてればいい」
車の外にいるモトイに、柳沼の声が聞こえたとは思えない。
しかし、柳沼は自分に向かって呟くように、低く繰り返した。運転手の行き先を尋ねる声が遠くに聞こえる。頭が重い。早く楽になりたい。
「僕の言うことだけを――……」
モトイは柳沼の所有物であって、茅島の組員じゃない。茅島はいつかモトイが殺す相手なんだから、それを忘れるなとずっと言ってある。
モトイは柳沼のものだ。茅島の言うことも、能城の言うことも聞かない、柳沼だけのものだ。
両親に棄てられ、他に友達も仲間もなく、道端で死にそうになっているモトイを拾ってきてやったのは柳沼だ。
「お客さん、駅ですか?」
運転手の声に顔を上げると、バックミラーには呆然と立ち尽くしているモトイの姿が見えた。
「――松佳一家の事務所まで……」
柳沼は掠れた声でそれだけ告げると、モトイの姿からも視線を伏せて、そのまま後部座席に倒れこんだ。
瞼の内側にはモトイの顔が過ぎる。モトイを叱責することで、小野塚に拒絶されたことの痛みが薄れていくような気がする。
柳沼は自分よりも可哀想なモトイを拾い、愛してあげているつもりで
本当は、モトイの愛情に甘えていた。