荒野の野良犬(17)
「ッ!」
頭を押さえる手を思い切り振り払って目を見開くと、そこには小野塚の顔があった。
「ああ、ごめん。起こしちゃったかな」
柳沼に振り払われた掌を宙に彷徨わせて、ばつの悪そうな苦笑を浮かべている。
重い身を起こし、辺りを見回すとそこは見慣れた病院だった。震える両手を見下ろすと、深く薬に蝕まれた体は痩せ細ってみすぼらしい。
いつしか長く伸ばしていた髪も、あの時見たツバメの髪と同じように荒れて、ところどころ絡まっている。
「伶が寝ちゃったから、どうしようか、と思ってたんだけど」
はは、と声を漏らして笑った小野塚は夢の中より大人びて見える。昔よりずっと精悍そうで、スポーツでもやったのか、少し骨太になったようだ。肌の色も健康的で、柳沼とは正反対だ。
薬のせいで食欲もなく、気持ちはいつも何かに追い立てられているようで薬が切れることが怖くて、幻覚に怯えて、薬を嫌悪するくせに薬に縋ってばっかりだった柳沼は、きっと老けて見えるだろう。
肌の表面は乾くし、病院に収容されてからはツバメのように自分を傷つけたりもした。
眠っていたって古い夢を見るばかりで、無限に続く悪夢が終わらない。何度も何度も柳沼は能城に騙され、能城に利用され、自分の身を呪って、無力な自分に蹲るばかりだ。
「伶、怖い夢を見るんじゃないの」
ベッドの上をずる、と後退した柳沼に小野塚は気安く腕を差し出して首を傾いだ。
まるでいつか、柳沼が内藤の店に出入りすることを言及した夜のようだ。
きっと小野塚はあんな夜のこと、覚えていないだろうけど。
そう思うと柳沼は知らず、口元に笑みが浮かんだ。自嘲的な笑みだ。
「……関係ないよ」
視線を伏せると、骨ばった手が力なくシーツの上に落ちている。
自分は観察者にしては能城に近付きすぎたのか、それとも能城の傍で上手く立ち回れていれば今こんなところに幽閉されることはなかったのだろうか。
薬を使用してどんな覚醒状態にあっても、何度考えても、上手く立ち回る方法なんて判らなかった。
能城の野心のために力を貸せていれば柳沼は優遇されただろう。どうして能城のために力を尽くせなかったのかは判らない。
モトイが悪かったのか、モトイを教育しきれなかった自分が悪いのか、茅島の寝首を掻くチャンスを逃した自分が悪いのか、能城を愛せなかった自分が悪いのだろうか。
「僕がどんな夢を見ていたって、関係ないよ」
夢の中まで助けに来てくれるわけじゃない。
夢は現実じゃない。どんなにか不可能なことでも叶えてくれたっていいはずなのに、それでも小野塚は助けに来てくれたことはない。
何度だって柳沼は現実をなぞるばかりだ。
「関係なくはないよ」
膝を引き寄せた柳沼の痩せた手に、小野塚の厚い掌が重なった。
反射的に、振り払う。
「伶、」
困ったように眉尻を下げた、太陽のような小野塚の顔から視線を逸らす。冷え切った自分の手を、シーツの中に隠した。腕を見られれば注射の痕も、自分でつけた創傷も見られてしまう。
「――そんなことまで、母親に頼まれたわけじゃないでしょう」
口に出してから、可笑しくて顔を伏せた。
小野塚は覚えているわけがないのに、今更そんな皮肉を出してきた自分が可笑しい。
一人、高級マンションに引き篭もっていた柳沼の元を尋ねてきてくれた小野塚が、ただ母親に頼まれたから様子を見に来てくれたのだと知っていたのに。
それでも柳沼はいつも、カーテンの隙間から覗いた小野塚の姿を思い出しては縋っていた。
もう母の顔も思い出せない。それなら、母に頼まれて柳沼の様子を見に来てくれただけだとしても、小野塚のあの姿だけが柳沼にとっては救いだった。
どんなにか高学歴だと持て囃されたって、所詮中身は何も知らないただの馬鹿な子供だ。
観察者なんかじゃない。どこへも行けなかっただけだ。
「……俺がおばさんに頼まれたのは、伶が寂しくないようにって、それだけだよ」
胸に引き寄せた膝に顔を伏せた柳沼の髪に、小野塚の掌が触れた。ひどく暖かくて、まるで柳沼を乾かそうとしてくれているかのようだ。
「俺は伶に嫌われたくはないんだよ。だから伶がどんな人と一緒にいても、伶がそれで寂しくないならそれで良いと思ってた」
柳沼の傷んだ髪の上を、ゆっくりと小野塚の掌が滑っていく。
絡まった部分は丁寧に解きほぐすように。乱れた表面を静かに撫でながら。
今、小野塚がいつものように安穏と笑っているのかどうか、想像もつかない。柳沼は頭上から落とされる低い声音に耳を澄ませた。
「俺は臆病だから、伶の友達を俺が勝手に選ぶような真似をしたら伶は怒るだろうし、――そもそも、選ぶことなんてできないしね。伶の一番の友達は自分だって、昔も今もずっと、そう思ってるから」
小野塚の笑い声が聞こえた。笑った顔が瞼の裏に想像できる。
柳沼だってずっと、小野塚の他に友達なんていないと思っていた。宇佐美も内藤も、友達だと思えたことはなかった。茅英組では何年も他愛もない話をして過ごしていた組員がたくさんいたけど、彼らを友達だなどと言ったら、
「――ッ!」
息を呑むと、柳沼は発作的に小野塚の手を弾いていた。
「伶?」
小野塚が撫で梳いてくれた髪を、自分の汚れた掌で掻き毟る。
ベッドの上を後退すると、すぐに壁へ背中が押し当たった。その壁に嵌め込まれた窓は決して開かない。柳沼が投身しないためにだ。
忘れることはできない。
頬が痙攣したように強張る。驚いて柳沼の顔を見つめた小野塚の目には、柳沼が微笑んでいるように見えるかもしれない。
「僕に、触るな」
茅島の下で何年も働いている間、忘れそうになったことは何度もあった。
モトイの突拍子もない行動に思わず笑いを誘われることもあったし、柳沼を慕う組員もいた。茅島は能城が言うような野心の見えない男だった。
茅島を殺さなければいけないなんて目的を忘れそうになったことは何度もあった。
しかしそのたびに、柳沼は薬を切らして、能城の顔を拝むことになった。
自分から能城の下へ助けを乞うように出向いて、薬を貰う代わりにと、男根を口にする行為だって辞さなかった。薬がなくては生きていけなかった。薬のためには能城の言うことを、何でも聞いてきた。
そんな自分が、茅英組の人間を友達だなんて言ったらひどい侮蔑だ。
最初から裏切るつもりだったのに。
「伶、大丈夫だよ」
壁に背中を張り付かせて小野塚を睨み付けた柳沼に、小野塚は控えめに微笑んでゆっくりと腰を上げる。掌を差し出し、柳沼を静かに手招く。
「伶」
「僕は汚いんだよ」
どんなにモトイに洗わせたってこの汚れは落ちるものではない。
薬に汚染されて、教師たちの自慢の種にされていた脳だってきっともうボロボロだ。自分を堕落させる薬のために自分がもっとも嫌悪していたことをやってきた。
「俺だって綺麗なんかじゃない」
小野塚の手が近付いてくる。
どんなに目を凝らしたって、その掌にも人の良さそうな笑顔にも、昔も今も、一点の曇りも見つけることはできない。
「政治家なんて、奇麗事ばかりじゃやっていけない」
苦笑した小野塚の表情に、柳沼は眉を顰めた。
やはり、小野塚が秘書を勤めていたという議員は汚職事件に絡んでいるのか。そう思わせる表情だった。
思わず言葉をなくした柳沼の肩を、小野塚の手がやんわりと掴んだ。
小野塚の腕に比べたらなんて貧弱な体だと思われたかもしれない。しかし、小野塚は何も言わなかった。引き寄せることもせずにただ柳沼をベッドの上の、その場に捕らえている。
「ああ良かった、伶を捕まえた」
そう言って、戸惑う柳沼の耳元へ身体を屈めて笑う。あまりにも屈託のない子供染みた小野塚の様子に、柳沼は思わず呆れた。こんな調子で政治家の不正を解かれても信憑性がない。
「もう一人でどこかに行ったりしないでね」
小野塚の声が低くなる。
体温の高い腕に掴まれた柳沼はまた意識が遠くなってきて、その声もしっかりと聞き取ることはできなかった。
「もう二度と、伶を寂しくはさせないから」
小野塚の肩に手を宛がって、引き離そうとした。しかしどうにも、引き剥がせない。力の差だけじゃない。柳沼は、力を篭めることができなかった。
眠いだけだ。
だから、力が入らない。
そう自分に言い聞かせた。
「もう一人にはしないから。――あの時みたいに」
小野塚の声が遠くなる。
半分は、柳沼が夢の中で聞いた幻聴だったのかもしれない。
それでもいい。夢の中でくらい、助けて欲しい。