SUMMER BLLOMER(4)

「粉物、駄菓子類を含めた飲食店の売り上げが以上で全てです。次に……」
 先日の夜祭での収益を読み上げる辻の背中を眺めながら、瀬良は机に突っ伏した。
 無駄に広い事務所は相変わらず静かで、物音と言えば辻の声と、灰谷が何事かパソコンのキーボードを打つ音しかしない。
 辻の報告を受けている十文字は起きているのか寝ているのか判然としない面持ちで、視線を伏せている。
 相変わらず椅子の上に片足を乗せて片胡坐をかき、腕を組んではもっともらしい表情をしているように見える。
 瀬良は両手を机の下にぶらりと下げて、顎を乱雑な机上に押し当てた。
 上目で辺りを見回した視線を、正面の灰谷に向ける。いつ渡された何かも判らないような書類やら、CDケースや菓子の箱が積み上げられた瀬良の机と、整然と整理されている灰谷の机の間にはちょうど良いくらいの谷間があり、そこからうまいこと灰谷の真剣な表情が見えた。
 デスクワークをする時だけかけるという灰谷の眼鏡姿は新鮮で、瀬良は無性にむらむらとしてくる。
 茅島の思い人だという――いや、祭りの時の様子ではもはや一方的なものでもないのか――弁護士の先生とは違った趣の眼鏡を、灰谷はかけている。やはりどこかまだ、あどけないように見える。年下である瀬良がこんなことをいうのもおかしな話だが。
 灰谷は少し頬がふっくらとしていて、童顔に見えるのだ。まだ大学生だと言っても誰も疑わないだろう。そこに縁の太めな眼鏡を載せると、不思議と知的さが強調されるよりも、可愛らしさが増すように思える。
 そんなことを口にすればお前の目は腐っているのかと一蹴されて終わりだろうが。
「22時頃に境内の方で騒いでた若いのがいたっていうのは」
 不意に十文字の低い声が聞こえて、瀬良は灰谷から視線を移した。
 起きていたのか。びっくりだ。
「はい、近くの中高生が六人ほど、花火に興じていたのを注意した老人と揉め事になり……」
 辻は手元の書類を勢いよく捲りながら、淀みなく答えた。
 辻の手元には先日の夜祭の全てが記載されているのだろう。十文字が何を尋ねても大丈夫なように。
 だけどさすがの辻のリサーチにも、茅島がペアルックで現れたなんてことまでは書かれていないかもしれない。
 ――いや、どうかな。
 澄ました顔で事務仕事を消化している灰谷が、その辺まで報告をあげていれば、十分辻の知っているところかもしれない。
 そんな場所にペアルックで来る茅島も相当頭が沸いているとしか思えないけど、瀬良にしてみたら羨ましい限りだ。
「昨日川崎の爺さんから要望があって、来年の露天構成について参道をもう少し広げるようにということだったから、その辺を微調整して、おい辻、腹が減ったな」
 瀬良は珍しく真面目な声を出して仕事に励んでいる十文字の声に、うとうとと落としかけていた目蓋を、ぴくりと震わせた。
 身を起こし、首を伸ばして十文字の机を見遣る。
「……ああ、もうこんな時間か」
 あまりにも脈絡のない、しかも唐突過ぎる十文字の要望に、辻は眉一つ動かさずに手首を返し、腕時計を確認した。
 いつもながら、素晴らしいバイタリティだ。
 瀬良が仕方なくこの菱蔵組に籍を入れて数年、十文字をそれなりに傍で見てきたつもりだったが、未だにこの流れるような勢いでまったく関係のないことを言い出す、頓珍漢な物言いには慣れない。
「何が食べたい」
 その点、付き合いの長いらしい辻にしてみたら慣れる他なかったのだろう。その姿に諦めさえも滲ませずに手元の書類を呆気なく閉じた。
 十文字が腹が減っただの眠いだの飽きただのと言い出したらもう何を言っても聞かないことは判っている。辻はあとで自分で目を通すようにとばかり、書類を十文字の机の上に伏せた。
 その手を、十文字が捕らえた。
 両手でがしっと掴んだ辻の太い腕に、十文字は無言で顔を寄せる。
 瀬良は辻の表情を窺った。辻自身、十文字が何をするつもりなのか計りかねているようだ。何か起こるまでは反応をしないつもりなのだろう。いつも通りのむっつりとした表情で十文字を見下ろしている。
 十文字は、その黙り込んだ辻の腕を覆っているスーツを捲り、ワイシャツを剥いて、――噛み付いた。
「っ!」
 息を呑んだのは瀬良だけだった。
 大きく口を開いて口端いっぱいまで辻の浅黒い腕を頬張った十文字は、それきり微動だにしない。辻もまた、十文字の行動を見守るようにじっとしている。
「…………」
 瀬良は固唾を呑んで、十文字と辻を交互に眺めた。
 灰谷は背後の様子を振り返りもせず、淡々と仕事を進めている。
 息が詰まるような――そう感じているのは瀬良だけかもしれないが――静寂が事務所を包んでゆく。
 やがて、ごくんと音を立てて十文字の喉仏が上下した。
「――肉汁が足りない」
 辻の腕を頬張ったまま、不明瞭な声で十文字が不服を漏らした。
 唇の奥にちらりと覗いた辻の肌にくっきりと歯形がついているのが、瀬良の席からも見えた気がした。
「体脂肪率が低いからな」
 辻がにこりともせずに答えた。
 いや、そういう問題じゃないだろう。と、瀬良が突っ込めるような雰囲気でもない。
 しかし瀬良が突っ込まなければ、今この事務所には他に誰も突っ込める人間はいない。十文字も辻もボケ倒すばかりだし、灰谷はボケ殺しに定評があるといっていい。
 瀬良ははらはらする気持ちを抑えて、正面の灰谷に声を潜めた。
「……何で辻さんは何も言わないの」
 せめて痛そうな顔のひとつでもして見せたら、もしかしたら十文字はそれが見たくてあんなことをしているのかもしれないのに。
 自分の机に積み上げたガラクタの山に身を隠すように首を縮めた瀬良が、仮にも自分の所属する組のトップである二人のあまりにもあまりな戯れ合いを盗み見ながら尋ねると、ようやく灰谷がノートパソコンの上の指先を止めた。
「俺たちは、自分のボスには口答えしないものだよ」
 それがたとえ、自分の意に反した命令であっても。
 灰谷はそう言いたいのだろう。
 十文字の命令には全て首を縦にしか振らないで生きてきた彼なら、それも確かに判る。辻などもっと筋金入りの十文字信者だ。
 それにしたって。
 瀬良がもう一度十文字たちに視線を転じると、変わらず腕に噛みつかれたままの辻は、やはり表情ひとつ変えずに十文字を見下ろしている。そんな辻を十文字もまた、反応を窺うように見上げて静止している。
 睨み合いと表現するにはあまりにも間の抜けた風景だ。
 あれが自分たちのボスだとは思えない。思いたくない。だから灰谷も振り返らずに仕事を進めているのだろうか。
 灰谷はキーボードを叩く指をマウスに伸ばし、机上に滑らせている。
「……十文字、食事は良いのか」
 やがて停戦に飽きたように、辻が静かに尋ねた。十文字が噛み付いた腕から、つうと十文字の唾液が滴り落ちた。辻が伏せたばかりの書類の上に。
「喰う」 
 十文字がもぐもぐと唇だけ動かして、まるで子供のように主張する。
 ご飯を食べたいなら玩具は放しなさい、片付けなさい、というのが瀬良の家では母の口癖だったが――十文字の家ではそんな躾はなかったんだろうか。
 灰谷は不意に仕事の手を一度止めると、短く伸びをして席を立ち上がった。コーヒーを取りに給湯機に向かう。まるで、辻と十文字の戯言などそこに存在していないかのようだ。
 従者が主人の言うことに口答えしないのが当然だというなら、彼らの行動に関与しないというのも礼儀なのだろうか。灰谷を見ているとそうとしか思えない。
 しかし、たとえばこれが――まったく想像し難いことだけど――灰谷に腕を噛まれたのが瀬良自身なら、確かに嫌な気持ちはしない。
 瀬良は辻のように平静にはしていられないだろうけど、辻はこんなことじゃなくてもあまり感情を露にしないから、本心は驚いているのかもしれない。
 だけど自分の心酔している主人に噛みつかれてそのままにされても嫌だと感じなければ、それは大したことでも、諌めるようなことでもないのか。
 瀬良の主人は灰谷だけだ。十文字を主人だと思わないからこそ、十文字の行動を理解できず、それに反応しない辻も不思議に思えるが、あれが灰谷だと思えば理解できないこともない。……かもしれない。
 静かな事務所の片隅でコーヒーを入れている灰谷の背中を眺めながら瀬良が納得しかけた時、辻が小さく息を吐いた。
「いい加減にしろ」
 そう言って、十文字の腕を振り払う。
 その腕には唾液が糸を引き、歯形が鮮明に残っていた。
「あ」
 十文字が大きく歯を打ち鳴らして、不服そうに辻を仰ぐ。
 瀬良が灰谷を見遣ると、灰谷も辻の反抗を振り返っていた。
 主人に反抗してもいいものなの、と尋ねんばかりの瀬良と視線がかち合うと、灰谷は黙って視線を逸らした。