SUMMER BLLOMER(5)

 数少ないカウンター席には先客がいた。
 そのがっしりとした背中は、しばらく会うことがなくてもすぐに彼だとわかる、妙なオーラがある。
 あえて言葉にするなら、静かな狂気に似ている。
 昔はそんな風でもなかったが、誰もが父親の跡を継ぐものだと思っていた彼が自分で見つけた神輿を担ぐのだと決めた時から、その眼差しには狂気が見え隠れするようになった。
 それは他人を傷つける類のものではない。
 だからこそそれは危険な覚悟だと、茅島は思った。
 誰かを守ろうとする決意は、何かを壊そうとする刃よりももっと鋭く、自身をも傷つけかねない。
 現に彼は顔面に大きな傷を負って、生死をさまようこともあった。
 神に認められた強い男が、その力で誰かを守ろうとするなんて、狂っているとしか思えない。
 茅島は苦々しい気持ちで何度もそう思ったものだったが、今になってみれば茅島だって他人からそう見えているのかもしれない。
「珍しいな、お前が一人で飲みに来るなんて」
 茅島は彼の隣に腰を滑らせると、傍らの肩を軽く小突いた。
「茅島さん」
 ロックグラスを片手に転がしていた辻が、顎先を微かに震わせて隣の茅島を振り向いた。何か物思いにでも耽っていたのか、辻にしては珍しく驚いたような素振りを見せる。それも、辻の反応を見慣れた人間じゃなければさして変わったようにも見えないかもしれないが。
「今日はお守りはお休みか」
 グラスを磨く手を止めた根本に茅島が手を掲げると、すぐにキープボトルが差し出された。大きな丸いロックアイスに、深めのグラス。水は要らない。
 わざとらしく首を竦めた辻にボトルを薦めると、辻は手元のグラスの中身を一息で呷った。
 そのシャツの裾から、ふと見慣れないものが飛び込んできて茅島は思わず目を瞬かせた。
「どうした、それ」
 カウンターにグラスを戻した辻の腕を指すと、辻は素知らぬ表情でワイシャツの袖口を直した。
 店の外はまだ蒸し暑い。つい袖の釦を外してしまったのだろう。気心の知れた店だ、それは仕方がない。
 それにしても、腕に噛み跡をつけてくるなんてのは酷い無防備さだ。
「飼い犬に噛み付く主人だなんて、とんだ気狂いだな」
 茅島は空いた辻のグラスにバーボンを注ぎながら、首を左右に振った。
 辻がそんなことを許すなんて、相手は十文字以外に考えられない。万に一つでも、十文字以外の他人が辻の肌に気安く触るようなことがあったとしたのなら、今辻のシャツが白いままでいるはずがない。きっと返り血で赤く染まっている。
 案の定辻は茅島の揶揄を否定せず、返杯とばかり茅島のボトルを取ってグラスになみなみと注いだ。
「そういえば、先日うちの祭りにご足労いただいたそうですね。……ペアルックで」
 辻に注がれた酒に唇を寄せた茅島は、美酒を口に含む前に思わず咽そうになって息を詰めた。
 横目で見遣った辻は、相変わらず平然とした表情を保っている。
「……お前、可愛くなくなったね」
「お世話様で」
 憮然とした茅島に、辻がにこりともせずに頭を下げる。
 震える肩を隠す素振りも見せずに笑っているカウンターの中の根本を睨み付けながら、茅島はバーボンを呷った。
 茅島が辻に初めて会った時、もちろん辻の顔にこんな大きな裂傷はなかった。
 生まれついての体格の良さこそあったが、若さに任せて腕力をひけらかすようなことをしない、どこか世を拗ねた子供だった。
 父親が極道者だということを盾にせず、しかし恥じる様子もない辻の堂々とした態度は茅島の気に入って、まだ年端もいかない辻を繁華街に連れ歩いたこともあった。
 十文字と出会った辻が、茅島のことを頼らなくなって久しい。
 茅島も自分の組を構えるようになって、風の噂に辻の無茶な行動を耳にすることもあったが、なかなか時間を作れずにいた。
 成人した辻に再会した時、辻は菱蔵組の若頭に着いていた。
 顔には大きな傷を負い、大きく育った立派な牙を十文字の背中に隠して。
 それを辻なりの成長だったのだと納得するまで何年か必要だった。今でこそ、茅島にも椎葉という守るべき存在を持って辻の気持ちが判らないこともないが――それにしても辻の十文字に対する服従とは大分性質が違うものだと感じるが――しばらくの間は、辻が誰かの下につくのであれば是非自分のものになってほしいと思ったりもしたものだった。
 茅島なら、いつか辻を立派に自分の組を構える存在にしてやれると思った。自分が持つものを辻に引き継がせたいと思った。
 正式に杯を交わしたこともないが、若い頃から酒の飲み方を教えた辻とは兄弟分のような感覚だったと思っていた。
 それを横から掻っ攫っていったのがあの十文字では、未だに腑に落ちないところがまったくないとは言えない。
「ご馳走様でした」
 すっかり氷の小さくなったグラスを根本に掲げた辻が、スツールから腰を下ろした。
 気心の知れた仲だ。財布を取り出す素振りもなく、辻は次に茅島を振り返ると小さく会釈を寄越した。
「辻」
 ダーツ板の電子音が鳴り響く店内に引き返そうとする辻を呼び止めて、茅島は体を捻った。
 まるで一つの鎧でも纏ったような傷跡を見せて、辻が振り返る。
「この間は、世話になったな」
 柳沼の一件以来、組の間では礼を言う機会もあったがこうして個人的に会うことは初めてだ。
 あれが十文字の決断であったにしろ辻の指示であったにしろ、茅島が助けられたことには変わりない。
 茅島の命を助けられたのではない。茅島が命よりも守りたいと願った、椎葉を助けられたのだ。
「借りができた」
 スツールの上の膝に手をついて茅島が頭を下げて見せると、辻はふっと息を吐いた。
 騒がしい店内で、不思議と茅島の心にまで響く、微かな笑い声だった。
「茅島さんと自分の間で、貸し借りなんて言っていたらキリがありませんよ。それを言うなら、自分がたくさん借りている恩の内の、ようやく一つを返せたってだけです」
 顔を上げた茅島に、辻は小さく首を振って見せてそう言うと、静かに踵を返して店の扉へと姿を消した。
 馬鹿を言うな、と茅島が言い返すのを拒むような背中だ。
 借りがあると思うなら、十文字を捨ててでも辻は茅島の元へ来るべきだ。
 結局のところ、それができないことが辻の茅島への一番大きな借りだということになる。
 茅島は辻の背中から目を逸らしてカウンターに向き直ると、辻に注がれた酒を飲み干した。ボトルを手にして二杯目を注ごうとした時、ふとカウンターの中の根本と視線があった。
「茅島が振られるなんて珍しいものを見た。……今度椎葉くんに教えておこう」
 根本は茶化すように掌で口元を覆って笑った。茅島は黙って根本を一瞥したきりバーボンを呷った。
 椎葉には振られっぱなしだった。そんな情報を根本が椎葉に言ったところで、椎葉は何とも思わないだろう。
 椎葉が自分を振り向くなんてことは、ないかと思っていた。それでも今は彼が自分のものだと思える。
 しかし、辻はきっともう茅島のものにはならないだろう。
 十文字を快く思わない気持ちはあるが、しかし不思議と、辻が茅島のところに来るようなことがない方がいいとも思える。
 辻が次に茅島を頼るようなことがある時、それは取り返しのつかない事態に陥った時だろうから。
 柳沼のことで茅島が辻に作った借りを、返せるような機会はない方がいいのだろう。
 茅島は、胃の中に放り込んだアルコールが自分の負った傷跡を焼いていくような感傷を覚えて、そっと腹部を押さえた。