SUMMER BLLOMER(3)
最近、茅島が椎葉に触れる手がまるで繊細なガラス細工でも扱っているようだと思うことがある。
そんな風に思うこと自体、椎葉自身が茅島との最初の情事を忘れている証拠だ。
「先生、苦しくありませんか」
帯を貝の口に締め上げた茅島が、背後から椎葉の顔を覗きこんだ。
背中から覆い被さるように顔を見せた茅島の顔を仰いでから、椎葉は腰に巻かれた帯を一撫でした。
茅島が浴衣を持って椎葉を訪ねてきたのは数時間前のことだ。淡い色のしじら織で、しっかりと仕立てられたものだった。茅島が持ってきた桐の箱には有名な呉服屋の屋号が刻まれている。
手早く自分のものを着付けた茅島の浴衣は濃い色のやはり同じしじま織で、茅島の恰幅にはよく似合っている。
椎葉は自分が情けなく思えてくるほど細い腰周りを見下ろすといくらか気分が滅入った。
茅島が椎葉を壊れ物のように扱うのは、自分が貧弱だからなのかもしれない。
「ええ、……大丈夫です」
幼少の頃にだって着たことがない浴衣を茅島の手で着付けられて、しかし悪い気はしない。
どこかむず痒いような、照れくさい気分になる。
満足そうな笑みを浮かべて椎葉の浴衣を姿を眺める茅島に向き直ると、椎葉は眼鏡の弦を直す振りをして自分の頬に触れた。頬が熱くなっているような気がする。
柄こそないものの、これではまるで揃いの浴衣だ。こんな格好で表に出て茅島は恥ずかしくないだろうか。何しろ相手は自分のような、男なのに。
「良かった、よくお似合いです」
丈の長さを確認するように椎葉を足元から頭の先まで眺めた茅島が、不意に手を伸ばした。
ピクリ、と椎葉が顎先を震わせると茅島の手は衿元に落ちて、折り皺を直すように軽く引いただけだった。
椎葉は視線を伏せた。
気恥ずかしさが増してくる。茅島の体温も、汗のにおいも詳細に思い出せるほど何度も体を重ねているというのに、今更改めて茅島の指先一つを意識してしまう。
それもこれも、茅島が椎葉に優しく触れたりするせいだ。
「あっ」
祭は賑わっていた。
昼過ぎに夕立が降ったせいで足元は良いとは言えなかったが、過ごしやすい気温になって客足が伸びたようだ。
人ごみに揉まれるようにして屋台の間を練り歩いていると、脇の射的小屋から大きな声で呼び止められた。
「茅島のおっさん、寄ってってよ」
大きく前にせり出した屋根の向こうに、半分顔が隠れた青年が手を振っている。
瀬良だ。頭にタオルを巻き、長い銃身を持ってこちらを窺っていた。
菱蔵組の出している夜店は他にも数件あったが、この人ごみの中でも頭一つも二つも抜き出ている茅島の顔を見ると、どれも見てみぬ振りをしていたというのに。
瀬良らしいと言えば、瀬良らしい。
椎葉は――やはり同じことを感じているのだろう――呆れ顔の茅島を見上げると、彼の出方を待った。
茅島が玩具の銃を構えて今流行のゲーム機の箱を狙っている姿など想像し難い。いや、想像しただけで吹き出してしまいそうだ。
むっつりと口を噤んだ茅島に見下ろされた椎葉は、暢気な顔をして笑っている瀬良へと視線を転じた。
傍らには人形のように整った顔に何の表情も浮かべず佇んでいる灰谷の姿もあった。
店番をしている瀬良の傍らで、手伝う素振りもなく、退屈そうに辺りを眺めている。有事の際に駆けつけるために配備されているのかもしれない。
瀬良が騒いでいるのに気付いて、灰谷がこちらを見遣った。
視線の先の相手を射抜くように冷たい表情が、敵意の表れではないことは最近になって知った。
灰谷は茅島ではなく椎葉を見止めると、黙って小さく頭を下げた。
「先生、寄って行かれますか」
灰谷に会釈を返した椎葉の耳元に体を屈めた茅島が尋ねた。
なるほど、茅島ではなく椎葉が銃を構えるという選択肢もあるとは考えていなかった。
でもやはり、人の良さそうな笑みを浮かべている瀬良の後ろに並ぶ商品の箱は、どれを見ても倒せそうな気はしない。
そういう風に出来ているのだろうことは判りきっている。
夜店などただの余興に過ぎないのだから、それでも構わないのだが。
「……止めておきます」
椎葉は小さく首を竦めてから、瀬良にも頭を下げて見せた。
瀬良は何やら、テントの奥にいる灰谷に近付いては茅島と椎葉の姿を指して話しかけていた。浴衣のことを言われているのかもしれない。
瀬良に話しかけられた灰谷はもう一度椎葉たちに視線を向けると、小さく唇を開き、何か納得したように頷いてから、瀬良の頭を小突いた。
「先生」
射的屋の中の様子を窺っていた椎葉が茅島の声に視線を戻すと、間を中高生くらいの団体が通り過ぎた。男女入り混じって、楽しげに綿菓子を舐めている。数人の内の一組くらいは交際をしているのかもしれない。夏祭りの浮ついた空気に花を添えるような賑やかさがある。
中高生の数人を遣り過ごすと、茅島の手がその向こうから伸びてきた。
椎葉の手を掴んで、引き寄せる。
「先生、私の傍を離れないで下さい」
手を掴まれた椎葉は驚いて茅島の顔を見上げた。
確かに、祭とは言え菱蔵組の抱える行事の内の一つだ。他の勢力のならず者が混じっていたら、危険ということなのだろうか。
椎葉は茅島が何者か見つけたのかと、不意に気色ばんだ。
緊張は体にも現れたのか、思わず辺りを見回した椎葉の頭上で茅島が苦笑を漏らしたのが判った。
「いえ、……そういう意味ではなく、はぐれないで下さい、ということです」
椎葉の手を引いた茅島が、人ごみの間をゆっくりと縫うように歩を進めていく。その力の抜けた背中からは、本当に危険を感じているわけではなさそうだ。
椎葉は気恥ずかしさを押し隠すように視線を伏せた。
「子供じゃないんですから、大丈夫です」
茅島はそれでなくても人ごみの中で判りやすいというのに、はぐれるはずがない。
しかし茅島は椎葉の手を離そうとはしなかった。通り過ぎる人の肩が否応なしに触れるような混雑の中で、椎葉の掌に茅島の指が絡んでいる。
椎葉は、触れ合った指先が熱くなってくるように感じた。
誰も、自分の目線より下で繋がれている手など見ていないかもしれない。だけど茅島が椎葉を捕らえてくれているその繋がりを他の人に見られたくなくて、椎葉は小走りに茅島の背中へ歩み寄った。
椎葉の手を引いた茅島が辿り着いたのは、夜店を抜けた先にある神社の境内だった。
参拝客で賑わう社の裏側で、濡れた縁側にハンカチを敷いて腰を下ろした。
「あの辺りに花火が上がるはずです」
社を囲むように生い茂った木立の向こうに見える夜空を指して、茅島が言った。
その口振りからすると、十文字にでも聞かされた穴場なのかもしれない。確かに周りに人影はなく、遠くに聞こえるお囃子の音も夜店の賑わいも、心地良い。
椎葉は、まるで解き方を忘れたように触れ合ったままの掌をそのままにして夜空を仰いだ。
花火が上がるのは八時から。
今が何時なのか、茅島の手を離して時計を確認する気にもなれない。いっそあと一時間でも二時間でも、ここで茅島と座っていても良いとさえ思える。
地面に下ろした足先で、浴衣の裾が風に揺れた。
「――よくお似合いですよ」
不意に、沈黙の中に溶けるような声音で茅島が呟いた。
弾かれたように茅島の顔を仰ぐと、茅島は椎葉を見つめていた。気恥ずかしさに一度視線を伏せた椎葉が衿元を直すと、その手に茅島が触れる。
「こんな立派なものを頂いてしまって、すみません」
花火を見たいと誘ったのは椎葉の方なのに。
何かでお返しができると良いのだけど、と言葉を続けようとした椎葉の顔に茅島の唇が近付いた。
夜空を遮る茅島の顔は、影になってよく見えない。
椎葉が目蓋を閉じると近くの茂みから聞こえる虫の音が大きくなったような気がした。
衿元で重なった茅島の掌が椎葉の肩に滑る。椎葉は背中を社に預けて、茅島の体温に薄く唇を開いた。
茅島が椎葉に触れる手は優しい。最初の行為に比べたら、ずっと。それなのに、痛いほどに熱く感じるのは今の方が強い。
恐れるように受け入れた初めての時よりも、今のほうがずっと椎葉は身を震わせてしまう。キス一つででも、狂おしい気持ちにさせられる。
それが一度覚えてしまった劣情ゆえなのか、それとも茅島を愛しく思う気持ちの表れなのかは判らない。あるいは、両方かもしれない。
「こんなあなたを他の人間に見せるなんて勿体ないな」
椎葉の唇の内側を舌先でそっとなぞった茅島が、湿った声で囁いた。
辺りには虫の音しかしない。椎葉は握った掌を強く握り返した。
「……今は茅島さんしか見ていません」
落ち着いた場所で花火を見ることが出来る嬉しさよりも、茅島と二人きりでいれることが嬉しい。
花火を見たいなんて、結局ただの口実だ。
「あなたも私だけを見ていてください」
言われるまでもないようなことを、茅島は押し殺した声で告げると再び椎葉の唇を塞いだ。答えなど聞く必要もないと思っているのかもしれない。もちろん、茅島の口付けがあと一秒遅くても椎葉は肯定しか返さなかったに決まっている。
社に椎葉の体を押さえつけた茅島が舌を絡ませ、椎葉の唾液を啜った。
繋いだ手を滑らせ、袖口から膝の上に落ちて、ゆっくりと浴衣の裾を割ろうとしている。
「……ッ、茅、……さ・ンっ」
慌てて椎葉は首を逸らし、息を継ぐように茅島の名前を呼んだ。膝を閉じ、体を捩る。
茅島の手はそれを追って浴衣の中に忍び込んできた。一糸の乱れもなく着付けてくれたのは茅島だ。どんなにか乱れても、すぐにまた直してくれるだろう。それでも。
「だ、……っ駄目です、こんなところで、――誰が来るかも、判らないのに」
いくら穴場とは言っても、立ち入り禁止の防御柵が張り巡らされているわけではない。こんな場所はあまりにも開放的で、いくら茅島しか見えていなくても、とてもそんな気にはなれない。
しかし茅島は椎葉の唇がそれ以上拒絶の言葉を吐くことができないように強く貪って、掌を探らせてきた。
いつもよりも無防備な下肢に茅島の無骨な掌が這い、椎葉の膝を割ろうとする。椎葉は茅島の肩を押し返して、いやいやと首を振った。茅島の舌が椎葉の咥内を犯し、意識が遠のくような甘美な疼きを与える。
茅島の肩口で、椎葉は濃色の浴衣を握り締めた。
茅島の強引な愛撫は、まるで壊れ物を扱うようなそれじゃない。どちらかと言えば初めての時に無理やり椎葉の体を押し開いた力強さ、そのものだ。
だけど不思議と恐怖心が呼び起こされることはなかった。いや、今だって充分に、行為の最中は茅島の劣情は激しく、椎葉を強引に快楽の頂に引きずり上げていく。
そのたびに恐怖心を甦らせていたのは最初の内だけで、今となっては茅島の優しい指先にさえその強引さを期待して心を震わせているのは椎葉自身だ。
「ゃ、……ッだめ、…茅島さ、んっ……」
茅島の唇が離れ、椎葉の首筋に降りた。浴衣の衿元は崩れやすく、茅島が鼻先で掻き分けただけですぐに露になってしまう。噛み付くように痕をつけたがる茅島の唇に椎葉が背筋を戦かせた時、頭上で天を衝くような音が鳴り響いた。
辺りが一面、明るく染まる。
「――……!」
見上げた空に、花火が開いていた。
不意打ちを喰らったような茅島も顔を上げ、背後の夜空を仰ぐ。
一発目の花火が散り過ぎ去る前に、もう一発。金色の火花を放ちながら夏の空を照らしていく。
麓の屋台の間から、歓声が上がった。
「…………」
花火に照らされた茅島が、どこか間の抜けたような顔で椎葉と視線を合わせた。
どちらからともなく、笑いが零れる。
思いがけず興を削がれてしまってすっかり茅島の手は止まり、椎葉も笑いが収まらない。
茅島は縁側に座りなおすとわざとらしく大きく肩を落とし、花火を仰いだ。
続きは後で、などとは口に出して言うようなことでもない。
椎葉は茅島の手を握りなおすと、茅島の肩に寄り添いながら夜空に浮かんだ大輪の花を見上げた。