Salty lie

 その日、菱蔵組事務所は緊張していた。
 事の発端はすっかり日が暮れてから出勤してきた十文字だった。辻の妹である汐を伴ってきた十文字に、先に出勤してきた辻がわずかに険しい表情を浮かべた。その時から、瀬良は不穏な気配を感じていた。
 辻と十文字、そして汐の間に昔から何があったのか、瀬良は深くは知らない。
 しかし、瀬良が見る限りでも、汐はちょっと変わった女性だ。見た目は辻の妹とは思えないくらい美しいし、そうと知らず街ですれ違ったらつい振り返ってしまうだろうと思う。
 汐の兄が菱蔵の辻だと知らずに汐に手を出した男は数知れずいるんじゃないかと思うほどだ。
 しかし、性格はどちらかと言うと辻よりも十文字に似ているように思う。実際に女兄弟がいて、妹に夢を見るなんて無駄だと知っている瀬良でさえ、汐はちょっと敬遠したいと思う程度には。
「お兄ちゃん、話があるの」
 汐はまたひどく丈の短いスカートに、ヒールの高い靴を履いてきていた。胸の部分もかなり大きく開いていて、上にジャケットを羽織っているとは言え、ちょっと目のやり場に困る。もっとも、瀬良がそんなことを思っているなど灰谷に知られたらことなので、瀬良は素知らぬ顔をしていた。
「ここは職場だ、個人的な話なら後で聞く」
「お兄ちゃん今日夜勤でしょ? 後でって、何時になるのよ」
 汐はつかつかと辻のデスクの前まで歩み寄ると、辻の前で腕を組んだ。
 まるでモデルのようにスレンダーで、片足に重心を預けて顎先を上げている姿は様になっている。
 一方十文字は汐を連れてきたまま自分が応接セットのソファに座ると、来客用の煎餅を手にして齧り始めた。
「短い話だから安心して。あたし、子供ができたの」
 灰谷のキーボードを打つ手が止まった。ような気がする。
 瀬良の心臓は確実に一度、拍が遅れた。おそらく辻はもっとだろう。
 瀬良は辻の個人的なことを深くは知らないが、十文字がシスコンだと馬鹿にしているのは知っているし、汐にやり込められている姿を何度か見ているからそうなんだろうとは思っている。
 辻がゆっくりと、汐の顔を仰いだ。
 その顔に血の気がない。白くなった辻の顔に左目の傷跡だけがやけに鮮やかに色付いている。瀬良は思わずゾクリと背筋を震わせた。
 底冷えするような怒気が、辻のデスクから床を這って流れてくるようだ。灰谷もそれに気付いたのだろう。居心地が悪そうに眉を顰めて、正面の瀬良をちらりと見た。
 灰谷が瀬良に何かを合図してくれたのが嬉しくて、瀬良は一瞬辻の気迫も忘れて舞い上がりかけたが、
「瀬良」
 辻の静かな声に呼ばれて、すぐに竦み上がった。
「はい」
 まるでよく躾けられた犬のように、思わず椅子から飛び上がる。
 十文字の部下になったつもりは未だにないが、辻は良い上司だと感じる。辻が強い漢だということも、人に恐れられる理由も、面倒見がいいこともよく知っているからだろう。
 今は、まるで何人もの人間の生き血を吸ってきた鈍い刃のように辻の周りは殺気がみなぎっている。瀬良が菱蔵に勤めるようになって数年、他の若い衆よりは辻と接する機会に恵まれていると感じるが、それでも滅多に見ることがない辻の顔だ。
「ちょっと、そこの日本刀を持ってきてくれ」
 辻はその重々しい筋肉質な体に見合わず、ふわりと羽のように指先を動かすと事務所の神棚に上げてある日本刀を指した。
「っ、いやいやいや! 辻さん!」
 思わず瀬良が声を上げると、それを灰谷が驚いたように見上げた。辻の殺気に怯まずに制してから、瀬良も自分で驚いた。背中にびっしょり汗をかく。
「いいから持って来い。黙って言うことを聞け」
 辻の声は低く、淡々としている。
 瀬良が灰谷を一瞥すると、灰谷は小さく肯いた。仕方がない、と言っているようだった。瀬良もコーヒーで汚れたTシャツが汗でぐっしょりに濡れるほど冷や汗をかいている。これ以上辻に逆らえる気は、さすがにしない。
 瀬良は仕方なく神棚に一礼してから日本刀を取ると、辻のデスクに届けた。
 汐は呆れたような、醒めた眼で辻を見下ろしていた。肝が座っているというか、怖いくらいだ。
 瀬良が逃げ帰るように自分のデスクに戻るより先に、辻は日本刀の柄を握って鞘を投げ捨てるように刀身を抜いた。今まで飾り物だとばかり思っていた銀色の刃が事務所の照明を反射すると、瀬良は思わず喉を鳴らした。
 次の瞬間、どっと鈍い音がしたかと思うと、辻が自分のデスクに刀を突き立てていた。汐はそれをあくび混じりに見下ろしている。
「……どこの男だ?」
 唸るような辻の声。バリン、と十文字が煎餅を齧った。既に応接セットのテーブルには煎餅の個包装袋が五枚ほど散らかっている。
「別にそんなことお兄ちゃんに関係ないでしょ。あたしの子よ。一人で産んで、一人で育てるから。お兄ちゃんに迷惑かけるつもりはないけど、一応報告だけ」
「どこの男だと聞いてるんだ!」
 事務所の窓ガラスがビリリと震えた。今頃一階に詰めた若い衆が、何事かと二階を階段下から伺っていることだろう。
「大きい声出さないでよ。あたしに対してそんなことしたってビビるもんじゃないの、いい加減わかんない? ポン刀もただ大きいだけの声も、こっちは慣れっこなのよ。それに」
 汐が、長い爪を伴った掌でそっと自分の腹を抑えた。
 細くしまったウエストの一体どこに子供がいるのか、瀬良にはわからない。気づくと灰谷も汐を振り返っていた。
「――お腹の子供に悪いから、騒がないでよ」
 汐が、微笑んだ。
 子供を思う母親の笑みというふうには見えない。どちらかというと――
「わかった」
 辻は椅子をギッと鳴らして立ち上がると、机に刺した日本刀を抜いた。表情はなく、さっきまでの怒気も抑えられている。だからこそ、その静かさが恐ろしい、と瀬良は思った。
「お前が話さないならこちらで調べさせてもらう」
 辻は虚ろなつぶやきのように言うと、剥き身の日本刀をぶら下げたまま、事務所の扉に向かおうとした。
「ちょ、っ……お兄ちゃん!」
 慌てたように汐が声を上げるのと、応接セットで携帯を片手に寛いでいた十文字が顔を上げるのは同時だった。辻が事務所の扉に手をかけた瞬間、十文字が手を振った。
 駄目だ、今の辻にはいくら十文字であっても眼に入っていないかも知れない。それでも辻を止められるのは十文字くらいのものだろう。瀬良は祈るような気持ちで眼を瞑った。
 いくら待っても、辻が扉を開く音は聞こえない。
 代わりに聞こえてきたのは、緊張感のない十文字の声だった。
「辻、汐ちゃんに子供ができたなんてウソ」
 関係ないはずの瀬良と灰谷まで針のむしろに引き摺りこまれるような緊張感に満ちた事務所が、一瞬にしてハテナマークで埋め尽くされたようだった。
 汐と十文字を覗いた三人が、一斉に眉を顰める。
「子供ができたのは、俺の方だよ」
「どこの女を孕ませた」
 そっちかよ!
 思わず瀬良はツッコミを入れそうになって、いや待てよと密かに頭を抱えた。
 確かに辻は正しい。十文字は男だ。どうしたって子供ができるものじゃない。十文字に子供ができたといえば、女を妊娠させたと考えるのが当然のことだ。瀬良はツッコミを入れそうになった自分の感覚がおかしいことに気付いて、軽く混乱した。
 それにしても、辻は汐の妊娠の話を聞くより、十文字が女を妊娠させたと聞くほうが落ち着いているようだ。落ち着いているというより、十文字がどこぞの女を妊娠させたと聞いても、取り乱しもしていない。
 それって、浮気じゃないの? と、瀬良が口を挟むことなど野暮だとでもいうように。
「汐ちゃん」
「!」
「もちろんウソ」
 心臓に悪いやりとりだ。
 瀬良は正面で同じように額を抑えている灰谷と視線をかわすと、もう退勤しようかとアイコンタクトで囁きあった。
「妊娠したのは俺」
 十文字が、煎餅と水で膨れたお腹を両手で抑えて笑う。
 ――なるほどエイプリルフールか。
 辻が大きくため息を吐いて日本刀の鞘を取りに机へと引き戻した。瀬良と灰谷は間も抜けた空気に乗じて、事務所を後にすることに成功した。何故か、汐も後をついてくる。
「……いいんですか?」
 案の定二階の様子を伺っていた若い衆を散らしながら瀬良が汐におそるおそる声をかけると、汐は首を竦めて小さく笑った。笑うと、歳相応の女の子に見える。辻と対峙している時の恐ろしさを微塵も感じさせなかった。
「ま、報告は済んだからいいの」
 報告、と灰谷が傍らでつぶやいた。
 つまり、――そういうことか。
 瀬良はやはり汐という女性を恐ろしく感じて、灰谷の細い腕にしがみついた。


「えー、何で俺を孕ませた相手に対しては誰だ、って怒らないの」
 事務所に残された十文字は、日本刀を返した神棚に掌を合わせている辻の背中を叩いていた。
 数時間前、汐から相談を引き受けた時はどうなることかと思ったが、まあこれが妥当な落とし所だろう。どんな報告だったとしても辻は取り乱すに決まっているのだ。
 十文字にだって姉がまだ存命だったら、よその男に持って行かれでもしたら寂しくなるだろうと思う。辻はその感情表現が派手なだけだ。
「お前を孕ませたのは煎餅氏だろ。そこに事後の残骸を落としておくな。五発もやりやがって」
 辻はすっかり毒気の抜けた様子で大きく息を吐くと、十文字を振り返って頭を押さえつけるように撫でる。
 瀬良と灰谷が気を効かせて帰ってくれたおかげで、辻は二人きりでいるのと同じ、ただの同級生の辻として話している。さっきまで日本刀をぶら下げていたのと同じ男とは思えない。
 十文字は頭上から辻の手をむしり取ると、がぶりと噛み付いた。
 筋肉質な辻の腕が、ぴくりと震える、しかしそれきりだ。噛み付かれ慣れてしまっているのだろう。
「煎餅じゃ腹は膨れても、妊娠はしないよ」
「そもそも男は妊娠しない」
 じゃあ、十文字が他の女を孕ませたのだとしたら、どうしていたのか。
 あの時、辻は怒ってもいなかったし、ショックも受けていなかった。十文字が女を妊娠させたというのがもし本当だったら、辻は喜んでくれさえした気がする。
 十文字は女を抱けない。
 姉の最期を見ているせいだ。
 だから、十文字がそれを克服したのだとすれば、辻にとっては嬉しいことなのかも知れない。十文字にしてみたら、そんなのは嬉しくない。
 十文字は押し黙って、辻の腕に歯をいっそう食い込ませた。
「十文字、痛い。離せ」
 辻が腕を揺らして、十文字を振りほどこうとする。しかし十文字は離さなかった。辻が十文字の頭をやんわりと押し返して、引き剥がそうとする。
「……お前の子だろ、常識的に考えて」
 唾液まみれにした辻の腕から引き離された十文字がポツリと漏らすと、辻は一方の袖口で自分の腕を拭いながら、十文字を見遣った。
 分厚い胸を上下させて、短く息を吐く。それから、十文字の頭に手をかけて抱き寄せた。
「そうだな。丈夫な子を産んでくれよ」
 辻の大きな掌が、十文字の髪の上を愛しげに滑る。十文字のために何人かの人の命を奪った手だ。辻のために本当に命を宿すことができたらどんなにか良いだろうと思わずにいられない。
「とりあえずつわりが心配だから今晩、夕飯は抜きだな」
 十文字を優しく抱きしめた後で、辻はしれっとして言った。
「えー! なんで! 肉!」
「煎餅食べ過ぎだ、馬鹿」
 デスクに戻ってしまった辻の背後によじ登り、椅子と辻の間に無理やり体をねじ込みながら十文字は激しく抗議した。
「ウソだから! 煎餅五枚も食べたなんてウソです! 夕飯ー!」
 十文字の悲痛な叫び声が、今日も菱蔵組事務所にこだまする。