Bitter lie

「灰谷さん、今日ウチ、泊められないんで」
 日勤の昼休憩すぎ、そういえばと顔を上げた瀬良が何事もないように言った。
 事務所の二階には灰谷と瀬良と、若い衆が一人、コピーを取っているきりだ。
「ああ、そう」
 灰谷は短く答えて、入力している伝票を一ページ、めくった。
 瀬良の家に泊まらないのは実に十日ぶりくらいになる。十日前も、泊まらなかったとは言え自宅に戻った灰谷に瀬良が電話をかけてきて夜通し他愛のないことを――主に瀬良が一方的に――話していた。だから瀬良の家に泊まらなかったというだけで、瀬良に手がかかっていたことには変わりない。
 折りしも明日、灰谷は週休をもらっている。久しぶりに自宅の掃除ができるかも知れない。もう何年もの間、月に一、二回しか帰らないような生活を続けているから、ひどく埃っぽくなってしまっている。
 荷物らしい荷物もないし、生活に必要なものは瀬良の家においてある。いい加減、自宅を引き払うべきだと瀬良も言うし灰谷もそれが合理的だと思う。それでもあと一歩踏み切れず、灰谷は自宅アパートの更新料を今年も払うことに決めていた。
 ほとんど使われてない布団も干してしまいたい。しかし、瀬良は今夜泊められないといっただけで明日の日中には連絡してきそうな気もする。
 コピーを取り終わった若い衆が、一礼して事務所を出ていく。
 灰谷はパソコンのモニターに視線を伏せたまま、唇を開いた。
「……友達でも来るのか?」
 空気清浄機の微かな作動音しか聞こえない乾いた部屋に、灰谷の硬い声が響く。
 友達でも来て夜通し飲み明かすつもりなら、日中も寝潰れていて灰谷に連絡が来るのは明日の夕方以降になるだろう。それなら、十分布団を干すことができる。部屋掃除だって、日中に窓を開け放ってやったほうが良い。
 学生時代の友達がいない灰谷には今ひとつぴんとこないが、瀬良が中高、あるいはアルバイトをしていた頃の友達と遊ぶからと灰谷に申告してくることは前にも何度かあった。
 そのたびに灰谷はいちいち報告するものでもないだろうと呆れたが、瀬良にしてみたら「友達と遊ぶことは楽しいが、灰谷さんとの時間を削られるのも惜しい」のだそうだった。
 職場も一緒で、事務所にいれば机を突き合わせていて、帰宅してもほとんど毎日一緒にいて、狭いベッドで折り重なるようにして寝ているというのに、その時間が多少削られることの何がそんなに惜しいのか灰谷には理解できなかった。
 瀬良は自分の友達と灰谷を会わせてみたいと言ったこともあったが、それが叶わないことなのは瀬良にもわかっていたようだ。灰谷が賑やかな付き合いをひどく苦手にしていることは瀬良も知ってくれている。
 瀬良は友達との付き合い方と灰谷との接し方を分けて、大切にしてくれている。それは灰谷にもわかった。
 だから、友達を大切にしながらも灰谷との時間もと欲する瀬良に対して灰谷はただ「欲張りなやつだな」とだけ応えた。
 友達は仕事の都合もあるだろうし、結婚してる者もあるだろう。そう頻繁に会えるものじゃない。灰谷にはいつでも逢えるんだから、気にする瀬良がおかしいのだ。
 灰谷だって瀬良がいないのなら、できることはたくさんある。
「いえ」
 瀬良が慣れない事務仕事に背中を丸めたまま、手に持っていた鉛筆の尻で耳の後ろを掻いた。灰谷を見ようともしない。計算を誤ってはいけないと集中しているのかも知れない。灰谷は話しかけてしまったことを後悔した。瀬良はただでさえも電卓を叩くのが苦手なのに。
 灰谷はそれきり話しかけるのを止めて、自分も目の前の伝票に神経を集中させた。じきに十文字が出勤して来れば、書類整理は捗らなくなるだろう。
 瀬良の予定を把握していたほうが掃除はしやすいが、時間が余ったら読書をしていればいいのだし、どうしても知っておかなければいけないというものでもない。
「ちょっと、一人になりたいんです」
 ぽつりと瀬良が呟いた。
 その硬い声に灰谷が思わず視線を上げると、瀬良は相変わらず顔を伏せている。表情はわからない。
「そうか」
 灰谷は瀬良の無表情を少しの間見つめると、その視線を壁のカレンダーに滑らせた。
 なるほど、今日は四月一日か。
 去年の今日も、瀬良はひどくリアルな猫の耳を頭につけてきて、朝起きたら生えてきた、と大騒ぎしていた。つまり、エイプリルフールというわけだ。
 灰谷は呆れて小さく息を吐き出すと、椅子の背凭れに身を預けた。
 ということは、たしかに今夜日付が変わるまでは灰谷は一人でいられそうだが、日付が変わった瞬間電話がかかってきそうな気もする。今日は早く帰って、零時までの間にできることをやっておいたほうがいいだろう。
 どうせ瀬良のことだから、自分で嘘を吐いたくせに「寂しかった」と大騒ぎして、明日灰谷が休みなのをいいことに、ひどく体を酷使されそうな気がする。
「――……、」
 灰谷はふとキーボードの上の手を止めると、自分の唇を冷たい指先で抑えた。
 自分から仕掛けておいて数時間の間つれない仕打ちをしてしまったことを悔いた瀬良が、灰谷の肉体に飢えた獣のように襲いかかってくることを想像するだなんて、まるでそれを期待しているかのようだ。
 いや、期待しているわけじゃなく、単純な、そしておそらく高確率で間違いのない、経験則による予報に過ぎない。
 灰谷は自分自身に対する苛立ちを押し隠すように席を立ち上がった。
「瀬良、珈琲飲むか」
 自分の分を淹れるついでだ。灰谷が声をかけると、しばらくしてから瀬良が顔を上げた。
 初めてとまでは言わないが、珍しく、真面目な表情を浮かべている。いつも灰谷と事務所に二人きりでいるとどんなに仕事をしていても、灰谷が何かしてやればしまりのない顔をするくせに。
 こうしていると、瀬良は男らしい、よく整った顔をしている。肝の座った男の芯の強さが伺えるような、凛々しさがある。普段はそれが微塵も感じられない、ただの駄犬のくせに。
「灰谷さん」
 珈琲を淹れるために立ったまま瀬良の顔に見とれていた灰谷に、瀬良がため息混じりに口を開いた。
「これから先もずっと、灰谷さんを泊めることはできません」
 本人に言ったらひどく嫌がられそうだが、瀬良は少し十文字に似ているところがあると思う。灰谷は十文字に出会うまでエイプリルフールなんてしたことがなかったし、エイプリルフールに賭ける気合は十文字と瀬良、どちらも甲乙つけ難い。
 瀬良は普段嘘も隠し事もできないくせに、エイプリルフールだけは無駄な演技力の高さを見せる。
 灰谷は肩で大きく息を吐くと、一人分の珈琲を淹れるために踵を返した。
「はいはい、わかったよ」
 まともに付き合うだけ無駄だ。どうせ数時間もすれば「ごめんなさいごめんなさい」と言って灰谷に抱きついてくるのだから。灰谷は別に本気になんてしていないのに、瀬良は一人で嘘を吐いて、勝手に心を罪悪感で満たしているんだろう。
「灰谷さん」
 コーヒーメーカーに溜まっていた珈琲が煮詰まっていないか、サーバーを取って確認する。そう悪くもないが、酸味の強い香がする。灰谷は瀬良が飲まないのなら自分用にうんと濃いものを淹れたくて、サーバーの中身を一度流した。
「俺、ずっと考えてたんですけど」
 背中から瀬良の声が追ってくる。
 灰谷がまともに取り合わないから嘘を畳み掛けたいのだろう。灰谷は呆れながら、コーヒーフィルターを手にした。
「俺達、もう終わりにしませんか」
 ドリッパーにフィルターを落として、コーヒーの粉に手を伸ばす。アメリカンが好きな十文字用のものと、灰谷が個人的に買ってきたものが二つ並んでいる。瀬良はどっちも美味いとも美味くないとも言って飲む。珈琲の味のわからない男だ。
 計量スプーンに粉を掬い上げて、灰谷は自分の手がひどく震えていることに気付いた。
 しかし背後に立っている瀬良には見えないだろう。灰谷は顔を伏せたまま、一度目を瞑った。
 こんなの毎年の、ただの嘘だ。
 それなら、灰谷がその嘘に乗ったって咎められることじゃない。
「そうだな」
 灰谷はそう答えて、どうしてだか、笑おうとした。
 自分はずっと笑えない男だと思っていた。父親に暴力を振るわれ、泣き叫ぶ母親ばかり見て育ってきたせいだ。自分の実の父親の返り血を浴びた自分が笑って生きるなんてできないと思っていた。
 だけど、瀬良の前では笑えた。瀬良の前でだけ。瀬良は、こんな灰谷に笑って良いと言ってくれたから。灰谷にも幸せになって欲しいと願ってくれたから。だから灰谷は、瀬良に、幸せにして欲しいと思った。
 瀬良しか、灰谷を幸せにできない。
 終わりにしようだなんて、他愛のない嘘だ。瀬良は終わるはずがないと思っているから、そんな嘘を吐けるんだろう。
「……灰谷さん?」
 瀬良に声をかけられて気付くと、灰谷は手に持っていた計量スプーンを落としていた。足元にコーヒーの粉が散らばっている。
「あぁ、ぼうっとしてた。気にするな、仕事をしていろ。じきに組長が来る」
 床にしゃがみこんだ灰谷が瀬良から顔を伏せたまま早口でまくし立てると、瀬良が慌ただしく駆け寄ってきた。
「う、嘘ですよっ! 今日あの、エイプリルフールだから、それで」
 瀬良の騒がしい声。嘘を吐いている時は演技めいていて低く抑えられていたから、これが本当の瀬良の声だと感じる。
「わかってるよ。日付が変わるまで吐き続けるんじゃないのか?」
 そのほうが、灰谷は部屋の掃除もできるし、一人で静かな時間を過ごせる。たとえ零時まででも。零時までだからこそ。
 灰谷の手元が滑ったくらいで慌てる瀬良が可笑しくて、灰谷は手の甲を振って瀬良を追い払った。つもりだった。しかし、駆け寄ってきた瀬良に思いきり肩を抱きすくめられた。
「瀬良、邪魔」
 珈琲が片付けられないし、まだ日付が変わるまで六時間以上ある。
「だって、灰谷さん」
 泣き出しそうな声で言った瀬良が強引に顔を覗き込んでくる。灰谷はその顔を手で押しのけようとして、掌が珈琲まみれなことに気付いて躊躇した。その隙を狙ったように、瀬良が唇を押し付けてくる。
「っ、瀬良。事務所では止めろ」
 いつ誰が来るかも知れない。
 顔を背けて嫌がった灰谷の頭を抱いて、瀬良が自分の肩口に灰谷の顔を押し付けた。
 瀬良のロングTシャツからは、灰谷と同じ洗濯液の香がした。一昨日灰谷が一緒に洗濯機を回してやった時の服だ。瀬良に干させると皺になるから、干すのも、畳むのも、クローゼットにしまうのも灰谷がしてやった。瀬良はそれを見ながら、しまりのない顔を浮かべていた。まるで奥さんですねとか、訳のわからないことを言いながら。
 灰谷は珈琲まみれのままの手で、瀬良のシャツの背中をぎゅっと握った。どうせ、洗うのは灰谷だ。
「ごめんなさい、今年のはちょっと嘘の種類が悪かったです。マリファナ海溝より深く反省してます」
 それを言うならマリアナ海溝だ。
 ますます十文字に似てきたような瀬良に脱力して、灰谷はしゃがんだ床にぺたんと座り込んだ。
「本当にごめんなさい。もう絶対にこんな嘘は、吐きませんから」
 事務所では止めろと言っているのに、灰谷の首筋に鼻先を埋めた瀬良が犬のように灰谷のうなじにそれを擦りつけてくる。背中を掻き抱いた手でしきりに灰谷の冷え切った体を撫で、頭を撫でてくる。
「俺ずっと、一生灰谷さんのこと離しませんから。一生、永遠に、死んでも、絶対、灰谷さんのことを愛してますから。灰谷さんが俺のこと嫌いになっても、俺は灰谷さんのこと大好きです。好きで、好きで、好きで、」
「瀬良」
 灰谷は瀬良の背中に回した手でどんと逞しい筋肉の上を殴った。肩を震わせた瀬良が、顔を上げる。うなじにキスをしたのを怒られたとでも思ったのか。違う。
「――今日それを言えば、どっちが嘘だかわからなくなる」
 エイプリルフールなんて、まったく下らない。
 どうしてそんなものがあるんだ。灰谷は大きくため息を吐いて、瀬良の首筋に頭を預けた。鼻を啜る。
「ごめんなさい……。でも、明日も明後日も、これから先毎日言い続けるほうが、本当だから、安心して下さい」
 それも知っている。
 だって昨日も一昨日も、瀬良は同じことを言っていたから。だから少しも疑ってないし、もう終わりにしようなんて言われたのだって、少しも騙されてはいない。
「……だから、灰谷さん。泣き止んでください」
 語尾を震わせた瀬良が灰谷の顔を再び覗き込んで、灰谷の頬の濡らしている生暖かい体液を唇で拭う。
 灰谷は弛緩した唇から、は、と短く息を吐くと、瀬良のシャツを握り直した。
「嘘泣きだ」
 騙されやがって、と灰谷が震える声で笑ってやると瀬良は一瞬目を瞠ってから、――灰谷の唇をそっと塞いだ。