Acerbic lie

「そういえば、今日ってウソをついてもいい日なんだっけ」
 行為の後で、モトイは安里をガムテープで縛り上げたままコップに並々注いだミネラルウォーターを啜って言った。
 安里は両手を背後に縛り上げられ、足もそれぞれ折り畳まれて固定されて身動きの取れない格好のまま、体中に精液を浴びて部屋の床に転がっていた。
 この時期はまだ少し、肌寒い。
 モトイは肌を粟立てた安里の様子など気にせずにコップをごくごくと呷っている。
 もしかしたら飽きたらず、もう一度くらい行為をするつもりなのかも知れない。それならば仕方がない。
 安里が息苦しさに呻きながら息を吐くと、背骨の窪みに溜まっていた精液がどろりと脇腹を伝った。今日モトイはひどく興奮していて、安里の腹の中にも、そして体の外にもたくさん精液を浴びせかけた。
 モトイの熱い体液を吐きかけられるたびに安里は身動きの取れなくなった体を緊張させながら、やはり何度も達してしまった。安里が身を捩ると肩や股関節が脱臼しそうになって、その恐れでさらに安里は感じやすくなっていたのだろう。
 体のどこもかしこも、ひどく濡れている。
 早く拭って綺麗にしたいという気持ちと、汚れたまままるで棄てられた玩具のように床に寝転がされている自分に恍惚とする気持ちが混在する。
「ウソかー、俺頭悪いからよくわかんないな」
 コップを空にしたモトイが、大きく息を吐いてベッドに飛び乗った。スプリングが軋む音を立てて、モトイの体を突き上げる。
 床に転がっている安里からはモトイの顔を伺うこともできない。もしかしたらこのまま眠ってしまうつもりだろうか。だとしたら、モトイを明朝どうやって起こせばいいのかわからない。それどころか、安里自身が出勤することもままならない。
「――……、」
 安里は、ガムテープで塞がれた口の奥から呻き声を上げてみた。床の上の体を揺らして、微かな抵抗を試みる。しかし、モトイからの反応はない。
 力加減など気にせずに安里の手首を何重にもぐるぐる巻きにしたガムテープは思いの外きつくて、少し指先も痺れている。
 モトイ。
 安里は何度か呼びかけてみるつもりで呻いたが、モトイの耳には聞こえていないのかも知れない。あんなに何度も射精したのだから、眠くなっても当然か。
 これ以上動けば、肩が外れてしまう。安里は大きく息を吐いて、モトイが途中で小便にでも起きてくれることを祈った。夜中に起きたモトイはベッドから降りようとして安里の肢体を踏みつけるだろう。それで気付いてくれるなら、踏まれるくらい安いものだ。
「……さんなら、ウソ上手なのにな」
 ベッドの上から、モトイのつぶやきが聞こえた。寝言かもしれない。
 最初の部分は聞こえなかったが、「柳沼」と言っていたように感じる。安里は床を見つめた自分の心のどこかが、さっと冷えていくのを感じた。
 わかっているつもりだった。ずっと、わかっていた。モトイは柳沼の所有物だったのだし、今だってそれは変わらない。安里はモトイを欲しないし、それならば安里の体を好きに扱いながららモトイが何を考えていても、構わない。
 しかし、モトイの唇から柳沼の名前を聞いたのは久しぶりだった。
 何年その名前を聞いていなくても、何十年そのことを忘れていても、事実は変わりはしない。そんなこと、安里が一番よく知っているはずなのに。
 安里は冷たい床に額を押し付けて、瞼を閉じた。
 そこにはもう、誰の顔も浮かばない。ただ冷え切った暗い昏い闇が広がるだけだ。
「安里はさ」
 安里が微動だにしなくなった頃、モトイが急にベッドの上に起き上がって口を開いた。その顔を見上げることもできない。寝ていなかったことは幸いだが、それでもガムテープを解いてくれる気はないらしい。
「もし茅島さんが、『藤尾が死んだっていうのは実はウソです』って言ったらどうする?」
 ぎくりと自分の肩が強張ったのを、安里は嫌というほど自覚した。
 モトイの顔を仰ぐことができなくて良かった。今、安里は自分がどんな表情をしているのかわからない。瞼を閉じてももう思い出せない人。声も、顔も、肌の感触も、血の匂いも、まるで力いっぱい握りしめた拳の中から砂が零れ落ちていくように、いつの間にかいなくなってしまっていた。
 お願い、置いて行かないで、力の限り叫んでも、あの人は安里を置いていくことを選んだ。
 今となっては、あの人を恋しがっているのか恨んでいるのかもわからない。
「もし、もう一回逢えたらどうする?」
 モトイがベッドから垂らした足で、安里の肩を乱暴に蹴り上げた。仰向けに転がって、安里はモトイの顔を横目に見た。
 モトイはもっと面白がっているような表情を浮かべているかと思ったけど、意外なことに無表情だった。その黒目に安里は自分の顔を探そうとしたが、よく見えない。
 肩は、モトイに蹴られた拍子に外れてしまったような気がする。しかしその痛みが、体の芯まで響いて心地いいほどだった、まるで冷水を浴びせられたように冷や汗が浮かんでくる。笑い出したいほど気持ちがいいように感じた。
「……ああ、そうか」
 モトイがベッドから腰を上げて、安里に腕を伸ばす。
 その手で、安里の首を今すぐ締めてくれたらいいのに。初めて会った時と同じように。
 安里が無意識に瞼を閉じると、次の瞬間、モトイの手は安里の首ではなく口元のガムテープに伸びて、びいっと鈍い音を立てて安里の呼吸を楽にしてしまった。
「これでしゃべれるでしょ。ねえ、どうすんの。藤尾が今、アンタの前に現れたら」
 モトイが安里の前にしゃがみ込んで、安里の暗い目を覗き込んだ。
「……現れません」
 死んだ人は、もう二度とは現れない。
 そんなことは知っている。嫌というほど。
「もし現れたらどうするの」
「もしも、はありません。あの人の心臓が動かなくなったのを、私はこの手で触って、確認しています」
 安里を呼ぶ声も、笑った顔も、安里を撫でる手も、どんなにかき集めようとしてもただ流れでていくばかりの血の匂いも思い出せないのに、あの日朝焼けの中で見た観覧車は今でもはっきりと思い出すことができる。
 安里が藤尾を愛したことも。
「――あの人は、死んで、もうこの世にはいない」
 だからもう二度と、会えない。
 安里は眩暈を覚えて、瞼をそっと閉じた。四肢が鬱血しているせいか、肩が外れた痛みのせいか。ひどく目が回る。
 モトイはそれ以上、何も言わなかった。でも、安里の前にしゃがみこんだまま動く素振りもない。安里はもうガムテープを解いてもらおうとも思わなかった。いっそこのまま、安里が死んで朽ちるまで放置していて欲しい。もう、動きたくない。
 どのくらいそうしていたかわからない。
 波のように押し寄せてくる眩暈が落ち着いて安里が目を開くと、モトイはまだそこにいた。
 しゃがんだまま寝てしまったのかと思ったが、眼だけを動かしてモトイを窺うと、起きていた。安里を観察するように、じっと見つめている。
 どれくらい時間が経過したのかわからない。少なくとも、短くはない時間だったと思う。
 安里は何故かモトイが自分の言葉を待っているような気がして、乾いて張り付いた唇を無理やり開いた。
「――……もし、」
 安里の声は掠れていた。モトイの耳に届くかどうかわからない。しかし夜は無情なほど静かで、モトイが小さく頷いたような気配さえ感じられた。
「柳沼さんが『あれは全て嘘だった、戻っておいで』と言ったら――……あなたは、戻るんですか」
 自虐的な問いかけだった。
 そんなこと、答えはわかっている。
 安里は自分自身を嘲笑させるために、そして子供のように純粋なモトイを無闇に傷つける問いかけを口にしただけだ。しかしそれで安里の心はどこか、満たされるような気もした。
 もしこの体に心という器官があるなら、その中が血で満たされたら、安里は満足するんだろう。
 その血は、誰の血でもいい。自分で自分を傷つけて流れた血でも、モトイが安里を切り刻んだ血でも、モトイの血だって。
「戻らないよ」
 モトイが事も無げに答えて、安里の腕のガムテープに、手を伸ばした。
 思わず聞き返すことも忘れて、モトイの顔を仰ぐ。
 モトイは安里の外れた肩に気付いていないのか、気を使うこともなく乱暴にガムテープを切り、粗雑な手つきで剥がしてしまう。手首も、足も。
「俺は柳沼さんの武器にはなれなかったんだ。きっと何度やり直しても、俺は茅島さんを殺せない。茅島さんを殺したい柳沼さんじゃなければ、俺は柳沼さんに拾われなかった。柳沼さんの目的を果たせない俺は、柳沼さんのところには戻れない。――戻らない」
 安里の体からガムテープをすべて剥がした後で、モトイが安里の呆然とした顔を覗き込んだ。
 はっとして息を飲んだ安里の肩を、モトイが掴む。
 そのまま何の声かけもなく、安里の肩を嵌めた。手馴れたものだ。ゴリッという軟骨の悲鳴が間近で聞こえたと思ったら、安里の肩は元に戻っていた。
「俺は、アンタと生きる。アンタはどうするか、知らないけど」
 モトイは安里の肩の調子を確認するように一度だけ肩に触れると、それだけ言い残してベッドに戻ってしまった。間を置かず、モトイの寝息が聞こえてくる。
 急に血が流れだしたせいで、指先がじんじんと痺れている。安里は、掌を見下ろした。自分がどうしようもなく生きていると感じる。感じさせられてしまった。
「――……嘘、……」
 安里が口内で微かに呟いた声は、安里の空虚な心の中で何度もこだまして、しばらくの間、響いていた。