幸せな飼い犬(1)

 昼過ぎから降り始めた雨は徐々に雨脚を激しくして椎葉法律事務所の窓を叩いている。
 定時が近付くにつれて、焦りにも似た気持ちで椎葉は心の中で何度もひとつの言葉を練習するようになっていた。
 緊張で喉が渇いて、しきりにお茶を口に運ぶ。
 事務所は相変わらず静かで、安里が電卓を叩く音と椎葉が書類を繰る音、それしか聞こえない。いつも通りの、乾いた空間だ。
 椎葉はもともと社交的とは程遠い性格だった。
 友達と呼べる相手は数えきれるほどしかいないし、その数少ない友人ともはしゃいで遊ぶという質ではない。我ながら狡い人間だと思うが、あまり自分から人を誘ったこともない。
 茅島と親密になってから初めて、自分が他人を求めるという感情に気付いた気さえする。
 特に他人を遠ざけようと思ったこともない。人と一緒に何かをしたいという欲求が希薄なだけだ。
 人と一緒に食事を囲むのは楽しい。一人でなら飲まない酒も、人と一緒ならば杯が進む。相手が茅島だからなのかもしれない。
 しかし椎葉の人生においてこんなにも多くの人と関わり合いになるのは初めてのことだ。
 弁護士という職業を選んだ以上多くの人を見ることになるだろうとは思っていたが、茅島を筆頭に十文字や根本など、職務と関係のない話をする相手に恵まれる状況は想定していなかった。
 彼らを友達だなどと言っては失礼かもしれない。しかし少なくとも彼らと椎葉の間に損得の勘定はない。茅島がいなくても他愛のない話をできる間柄だ。それをなんと呼ぶだろう。
 安里に関して言えば、少し違っている。
 彼は授業員だし、事務所を開いて以来茅島と同じくらい長い時間を一緒に過ごしているけれど、他愛のない会話なんてものは滅多にない。ほとんど皆無と言っていいくらいだ。
 お互いそれが落ち着く性分だというのは相性が良かったとしか思えない――茅島がそれを見越して安里を紹介したのでなければ。
 ただ、椎葉は何年もかけて少しずつ、この状態に変化を求め始めていることに気付いていた。
 多分、大きなきっかけは安里とモトイの関係を知ってからだ。
 おそらく安里自身にも何らかの変化があったように思う。それが具体的にどういうところなのかまではわからない。
 ただ、事務所に流れる空気が変わった。そう感じた。
 椎葉がこの事務所を訪れた時からかかっていたシンプルな壁掛け時計の針が、四時半を指している。
 窓の外の雨は一向に弱まる気配がない。
 椎葉はとうとう手につかなくなってきた法定記録を読むことを諦めて、机の下でそっと拳を握りしめた。
「あ、――……安里くん」
 しばらく声を絞り出せないまま馬鹿のように口を開けていてから、椎葉は思い切って下腹に力を込めた。
「はい」
 安里の返事はいつも素早く、冷静だ。ロボットのようだとさえ思ったことがある。それは今でもあまり変わらない。
 何か用事でも言いつけられるのかと機敏に振り返った安里に、椎葉は罪悪感にも似た気持ちを覚えた。これは悪ではない。大丈夫だと必死に自分へ言い聞かせる。
「良かったら、その……今日、うちで夕飯を食べていか、ない……かな」
 雨が降り出したことに気付いてから、四時間。
 安里を食事に誘ってみようかと思いついてからこの一言を絞りだすのに、椎葉の午後は費やされてしまった。
 意を決して口に出してみたものの、握った掌にどっと汗が滲んできた。
 緊張する。
 茅島に何か――はしたないおねだりでもしてみせるほうがよほど緊張しないのではないかと思う。もっとも、椎葉のことならなんでも真摯に向き合ってくれる茅島に今更緊張することなど何もない。比べるまでもないことだ。
「――……家で待ってる人間がおりますので、」
 逡巡の後、安里が唇を震わせるようにして低く呟いた。
「あの! も、……モトイくんも、一緒に」
 安里の返答は想定済みだ。
 籍を入れていないとはいえ寝食を共にする、家族のような存在がある人を食事に誘うならそのパートナーの都合を考えるのは常識的なことだ。
 安里や、あるいはモトイが嫌だというものを無理強いするつもりはないが、その点の心配の必要はない。
 そう言うつもりだったが、知らず椎葉は前のめりになっていたようだ。自分の声の大きさにはっとして、思わず口を噤む。
 安里は考えこむように押し黙ってしまった。
「あ、あの、この雨だし。モトイくんも茅島さんの車に同乗させてもらえば――あ、あの、今日茅島さんもお呼びしているので、三人きりというわけではないから気を使わず、あの」
 茅島を呼んだというのは嘘だ。
 ただ今朝方、散歩に出る茅島と離れ難くなった椎葉がその首に鼻先を擦り寄せると、茅島が椎葉の薄い背中を抱いて「また夜に」と約束してくれた。それだけのことだ。
 そうじゃなくても茅島は三日と開けず椎葉と夜を過ごしている。今日もそうだろうと、それだけのことだ。
 モトイも一緒に連れてきてくれと電話をする時に今夜も会いたいですと言えば、きっと茅島は来てくれるだろう。
 今朝方の茅島の熱いくらいに暖かい体温をふと思い出して椎葉が視線を伏せていると、安里が小さく息を吐くのが聞こえた。
 慌てて顔を仰ぐ。
 安里は微かに首を傾いでいるように見えた。
「……所長はそれで、よろしいのですか?」
「もちろんだよ」
 モトイを恐ろしいと思ったことなんて、もうとうの昔だ。
 茅島の手元に残されたモトイがまだ茅島を殺そうと思ってるなんて感じたこともないし、立派に働いてくれているようだ。それに、安里のことを命懸けで護ってくれたとも聞いている。
 暴力的な青年だというイメージはあるけれど、そんなことをいちいち恐れていたら暴力団の顧問弁護士は務まらない。
「――……ご迷惑で、ないならば」
 視線を揺らした安里が小さく息を吐くようにそう言うなり、椎葉は飛び上がるような勢いで自分の携帯電話を持って席を立った。
 外はまだ雨が降っているけれど、椎葉の心の中は急に晴れたようだった。



 椎葉が連絡をした小一時間後に、茅島は事務所にやってきた。
 時刻は五時半。茅島が訪ねてくるにはいつもよりすこしばかり早い。
 とはいえ、定時を迎えるとすぐに退所する安里が五時を過ぎても事務所に留まり続けるということ自体がイレギュラーな出来事で、椎葉はそれだけで落ち着かない気持ちになった。
 安里との付き合いは長い。ほぼ茅島と同じくらいだと言っていい。
 それなのに椎葉は安里のことをまだよく知らない。まさか茅島と一緒に考えることはできないが、それでももう少し親しめたら嬉しいとはいつも思っていた。
 とはいえ、定時が過ぎたからといって急に世間話ができるものでもない。
 結局所在がなくなって、食事に誘ったのだから準備をしなくてはならないと椎葉が腰を上げようとした矢先、茅島が到着してしまった。
「すみません、こちらからお誘いしたのにまだ何の準備もできてなくて」
 慌てて机の上を片付けながら椎葉が眼鏡の位置を直すと、茅島の背後にひょろ長い体躯を持て余したような白髪の青年が立っていた。モトイだ。目の当たりにするのは久し振りだけれど、気怠そうな、あまり乗り気ではないように見える。
「いえ、こちらこそ早く着きすぎてしまいましたね」
 一階の駐車場から来た茅島には雨粒ひとつついていない。しかしむっとするような湿度のせいか、後ろに撫で付けた髪が少し緩んでいるように見えた。
「お忙しくありませんでしたか? ……あの、モトイくんも。急に呼んだのに、来てくれてありがとう」
 机を離れた椎葉が覗きこむようにしてモトイを窺うと、翳のある目に一瞥されたきりだった。
 別に来たくて来たわけじゃない、とでも言われているようだ。
 たしかにこれでは安里を人質にして、茅島と椎葉がグルになってモトイを呼び寄せたようなものかもしれない。
 椎葉は首を竦めて、一度視線を伏せた。
「モトイ」
 茅島の低い声が響く。
 椎葉と二人きりの時には決して聞くことのない、組長としての声だ。
「オジャマシマース」
 あらかじめ、そう言うように含められていたのだろう。モトイは気のない声でぼそぼそと呟くように挨拶した。
 思わず、苦笑が漏れる。
 モトイを教育するのは犬を躾けるようなものだと以前茅島は言っていた。なんとなくそれがわかるような気がする。
 椎葉はモトイの挨拶に応じて小さく頭を下げた後、安里を窺った。
 特にいつもと変わった様子はない。
 彼らの関係が恋人と呼べるようなものなのかどうかわからないが、自分と茅島のような甘ったるいものではないのかもしれない。椎葉は茅島の顔を一目見ただけで浮ついた気持ちになってしまうというのに。
「安里、帰りは家まで車を出してやる」
「ありがとうございます」
 何の感情も読み取れない暗い声。
 茅島も安里を心配している様子を見せない。
 安里が昔、茅島の友人の"バシタ"だったという話は聞いた。後を追いたがる安里をこの世に繋ぎ止めておくために面倒を見ていると。
 つまらないやきもちで安里との関係を尋ねた椎葉はそれを聞いてひどく後悔したものだった。
 人の過去を、当事者のいないところで詮索するだなんてみっともない行いだ。
 椎葉は強く恥じて、だからこそいつか安里を食事に誘いたいとも思っていた。きっかけは何でも良かった。
 昔のことを気にして安里を心配してしまうのも、茅島との関係が気になるのも、今が満たされていないと感じるせいだ。
 今の安里と親しくなることができれば、何も気にすることはない。
「ええと、……じゃあとりあえず上にあがって頂いて、食事ができるまで待ってもらうようになってしまいますが」
 椎葉は階上の自室に続く階段へ三人を促しながら、さっきまでとは違った緊張を抱いていた。
 茅島以外の人を自室に上げるのは初めてだ。
 それが安里であることはなんだか少し嬉しい気もする。だからこそ彼を食事に誘ってみたのだが、居心地がいいと感じてもらえるかどうか。
 もっとも、安里は居心地の良いも悪いも表に出すことはない。この事務所だって居心地がいいと感じているから続けていられるわけじゃないだろう。 だからこそ就業時間以外で一緒に過ごす時間を悪く思われたくないし、むやみに緊張してしまう。
「先生」
 客人を促して最初に階段を登り始めた椎葉の背を、茅島の声が追ってくる。聞き慣れた甘い声だ。
「お手伝いしましょう」
 二段先を歩いた椎葉の背中に茅島の掌が触れる。肩越しに振り返ると、目線が同じくらいの高さにあった。
 背の高い茅島と目線を合わせているなんて面白いなと思うけれど、ベッドの中に入ってしまえばいつも目の位置は同じだ。椎葉はひとりでに頬を熱くさせて、首を竦めた。
「そんな、茅島さんもお客様なんですから」
「しかし我々が早く着きすぎたせいで焦らせてしまったのではありませんか? 先生にお誘いいただいたのが嬉しくて、つい」
 椎葉が茅島を誘うのなんてもう珍しくもなんともないのに。
 それともモトイも一緒にと言ったことが、だろうか。椎葉が茅島の意を探るようにもう一度その顔を振り返ると、思いがけず茅島の吐息が近くまで寄ってきていた。
「っ! 茅島さん……ち、近い、です」
 いつもなら、自室に上がるのも待てずにその肌を触れさせることもある。
 だけど、今日は二人きりというわけではない。
「何を今更。あいつらだって、察しているでしょう」
 困ったように笑う茅島の唇が今にも椎葉に吸い付いてきそうで、顔がますます熱くなる。
 椎葉は慌てて顔をそらし、階段を登る足を早めた。
 二人に関係を気付かれているとしても、だからって目の前で過度な接触をするわけにもいかない。椎葉が意識しすぎてなのかもしれないが、実際茅島に触れられようものなら――見つめられただけでも――自分がどんな顔を晒してしまうか自信がない。


「すぐに用意をするので、先に飲んで待っててください」
 一緒にキッチンに入ってこようとする茅島にビールとつまみを押し付けて、所在なさ気にソファにかけている安里とモトイを目で促す。
 茅島が勝手知ったる様子でキッチンに入ってくることそれだけでも気恥ずかしくなってくる。
 もっともこの建物自体堂上会のものだし、茅島が我が物顔でいることは何も間違ってない。初めて事務所に案内された時からそうだった。
「いつになくつれませんね」
 リビングを一度窺い見てから、茅島がわざとらしく肩を落としてみせた。
 部下の目を気にして、こちらを見られていないことを確認してからしてみせる消沈のポーズなんて作り物でしかないことはわかっている。
 それでも、椎葉は一瞬言葉に詰まった。
「……二人きりでいては、私の頭の中は茅島さんでいっぱいになってしまいます」
 せっかく二人を招いたのだから、それなりのもてなしはしたい。――二人がいる間だけでも。
 茅島は先ほど安里たちを送って行くと言っていたが、その後はまた椎葉の家まで戻ってきてくれるのだと信じている。もし茅島にそのつもりがないとしたら、そうねだるつもりだ。
 安里とその大事な人との関係も、茅島との甘い関係もどっちも欲しがっている椎葉は少しばかり欲張りなのかもしれない。
「そんな可愛いことを仰って触れさせてもくれないなんて、あなたはひどい人だ」
「ふ、触れてはダメだなんて……!」
 言ってない、と顔をあげようとすると茅島の掌が伸びてきたところだった。
 知らず拗ねた顔をしていたのだろう椎葉の顔を上げさせるためだったのかもしれないが、急に仰いだ椎葉に茅島は驚くこともなく頬を撫でる。
「……っ、」
 ざらついた掌が椎葉の頬の表面を滑る。ただそれだけで、背筋がじんと甘く痺れてしまう。
 こんなに心酔していることを他の人に悟られるなんて、恥ずかしい。
「私にお預けをさせるなんて、あなたくらいのものです」
 お預けだなんて言ってない。
 モトイも一緒にと呼んだ時点でこうなることはわかっていたはずなのに、意地悪なのは茅島の方だ。
 だけどそうと言って非難することもできず、椎葉は俯いた。
 まだ頬に残された茅島の掌が熱い。いつもならその手に自分から頬をすり寄せてしまうところなのに。
「――後で……」
 茅島の親指が椎葉の頬を擦るように撫でたその時、小さな呟きが聞こえて、椎葉は視線だけを上げて仰いだ。茅島の影がすぐ間近に落ちてきている。
「っ、茅島さん……! 安里くんたちが、」
 すぐそこにいるのに。
 慌てて身を引こうとすると、もう一方の手で腰を抱き寄せられる。
 戯れているような声とは裏腹に、乱暴で性急な力だった。
「こっちのことなんて見えていませんよ」
 ぴたりと体を寄せると、こうしている方が自然なことのように思えてくる。それくらい、椎葉と茅島の体の距離は近くなっていた。身も心も、融け合うような夜を何度も過ごしているのだから当然だ。
 リビングからキッチンが見えていないなんてそんなことあるはずがない。
 いつも茅島はリビングから椎葉のことを見ているのだから、どう考えたって嘘だ。
 それなのに椎葉は茅島を拒むことができなくて、せめて自分の表情を隠すように茅島の胸に顔を伏せた。
 優しい口付けが、前髪を分けた額に落ちてくる。
 それだけじゃなくて、唇にも欲しい。
 今椎葉が顔を仰がせれば茅島はそうしてくれるだろうけど、でも。
「後で、このお預けのご褒美をたっぷりと頂きますよ」
 椎葉の髪に頬ずりをするように顔を寄せたままの茅島が甘く囁く。何度聞いても胸が一杯になるような声だ。
「そんなこと……私だって、そうして欲しいと、思っています」
 茅島の胸の中で大きく息を吸い込む。雨の香りと茅島の香りが混じって、眩暈がするようだ。
 そばにいるだけで覚えるこれだけの幸福感を、自分が茅島に返せているのかと不安になる。そんなことを口に出せば馬鹿を言うなと叱られてしまうだろうけれど。
「だから、……その、今は食事を作らせてください。ほら、茅島さんもお腹が空いてるでしょうし、」
 ともするとそのまま溺れてしまいそうになる茅島の腕に後ろ髪を引かれる思いで身を引く。
 さっきはあんなに強引に抱き寄せたくせに、思いの外簡単に離れることができた。
「そうですね、あいつらを早く帰してやらないといけませんし」
 椎葉が招いた客人を邪魔者でも見るように顔を顰めた茅島の戯れに椎葉は小さく笑って、ようやくエプロンを手に取った。
「そのためにも、私にあなたのお手伝いをさせてください」
 ワイシャツの上からかけたエプロンの紐を椎葉の手から取って、茅島が背後で結ぶ。
 どうしても手伝わないと気が済まないらしい。
 こうして茅島が子供のように食い下がってみせるのが椎葉に対する甘えなのだとしたら嬉しくて、堪らなくなる。
 椎葉は肩を震わせて笑いながら、茅島の顔を振り仰いだ。
「茅島さんお料理できるんですか?」
「……少しくらいなら」
 スーツのジャケットを脱いで袖を捲ろうとする茅島に、今度は椎葉が手を貸す。
 ばつの悪そうな茅島の表情を見ていると、笑いが止まらなくなってくる。
 いつものように常に茅島に肌を寄せていることはできないけれど、その制約があるからこそ今日は茅島のいろんな一面を見れている気がする。この後、四人で食卓を囲んだらもっと新しい一面が見れるだろう。
 茅島と知り合ってからもう五年にもなる。
 それなのにまだ茅島と過ごす時間が足りない。もっと一緒にいて、茅島のことをたくさん知りたい。
 今日のように誘うまでもなく毎日茅島が椎葉のもとに帰ってきて、毎朝椎葉のもとから出勤していくようになればいいのに。
「譲さん」
 茅島の左腕に手をかけたままふと静止してしまった椎葉に、窺うような声が降ってくる。
 ――一緒に暮らしたいだなんて、今まで考えもしていなかったことに驚く。
 騒ぎ出した胸の鼓動を茅島に悟られまいとして椎葉が袖を捲る手を再開させようとすると、それに茅島の大きな掌が重なった。
 顔を上げる。茅島の優しい眼差しが、まっすぐ椎葉を見つめていた。
「そろそろ、引っ越しを考えましょうか」
 唐突な茅島の言葉に、椎葉は目を瞬かせて薄く唇を開いた。聞き返す声が短い呼気になって、漏れる。
「あなたの作る食事を毎日食べさせてください」
 そっと握られた手に、茅島の指が絡められる。
 椎葉は知らず喉を鳴らして、茅島の顔をじっと見つめ返した。
 頭が白くなる。
「もちろん、あなただけに家事を負担させようなんて気はありませんが――」
 何も言わない椎葉に苦い表情を過ぎらせた茅島が視線を泳がせると、茅島に握られた手を椎葉からも少しばかり力を込めた。
 呼吸を整えるように一息置いた茅島が、再び椎葉に視線を戻す。
「――どうか私と、結婚して下さい」
 身を屈めて小さく囁いた茅島の声に椎葉は呼吸をするのも忘れて、ただその場に崩れ落ちてしまわないように目の前のシャツへしがみついた。
「……はい」
 震える唇から漏れた声が、茅島の耳に届いたかどうか定かではない。
 だけど茅島だってきっと答えなんてわかりきっているはずだ。
 もしわからないなどととぼけてみせようものなら、今夜一晩かけてでもわからせてしまおう。
 椎葉は泣きそうになる顔を茅島の胸に押し付けて、自分と同じ速さで打っている鼓動に耳を澄ませた。