幸せな飼い犬(2)

 まだ雨は降り続いている。
 安里はカーテンの引かれた窓からでも煩いくらいに聞こえてくる雨音にぼんやりと耳を傾けていた。
 初めて上がった三階は、窓が大きく取られた間取りになっている。とはいえここは駅前の雑然とした商業ビル地帯で、三階程度の高さではあまり夜景は望めないだろう。
 この建物を購入したのは堂上組だと聞いているが、内装を決めたのは誰なのか、安里は知らない。
 きっと、隣でカウチの座り心地を確かめているモトイも知らないだろう。
 どうして椎葉が突然一緒に食事をと言い出したのかはわからない。
 今日は一日中様子がおかしかったが、茅島と喧嘩でもしたのかと思っていた。
 椎葉の様子を報告する義務を解かれてもう一年ほどになる。
 茅島にとって自分はもう不要だということかと尋ねることは簡単だったが、そうじゃないと笑い飛ばされることもわかっていた。
 原因は多分、モトイだ。
 能城の一件の後、モトイの退院を待って安里は茅島に呼び出されて正式に解任を告げられた。
 つまり、もう安里の命を繋ぎ止めておくのは藤尾の亡霊でも茅島のお節介でもなく、モトイだということなのだろう。
 確かにあの時モトイは自分の身を呈して安里を護ってくれた。
 あんなに死にたいと願っていた安里を。
 ずっと、自分が生きる意味なんてないと思っていた。それが藤尾のおかげで自分の人生がこんなにも楽しく思えるのだと知らされた。光を知れば、闇が濃くなることも必然だ。
 藤尾という灯火を失ってしまった安里にとってこの世は地獄よりひどい監獄だった。
 それなのに茅島は安里を生かし続けて、モトイに出会ってしまった。
 どうして自分のような人間を生かそうとする男がこんなにいるものかと考えたことがある。
 答えなんて出るものじゃないと思っていたのに、モトイはいとも簡単に「別に生かしたいなんて思ったことはない」と言い捨てた。
「ただ、俺以外のやつにお前を殺させない。そんだけだ」
 そんなこともわかんねーの、お前馬鹿じゃねーの、とまで付け足されて、安里は急に恥ずかしくなってしまった。
 他人が自分なんかのために何かをしてくれるんじゃない。少なくともモトイはモトイのためだけに安里を活かしているんだと思うと、気持ちが穏やかになった。
 最近はなんだか、常に寝ぼけているかのようなぼんやりとした気分だ。
 モトイは藤尾とは違う。
 鮮烈な光で安里の人生を照らしてくれるようなことはない。それなのに、モトイの傍ではものが明るく見える。そんな気がした。
「腹減った……」
 まるで初めての人の家に来たとは思えないほどカウチに浅く腰掛け、ほとんど寝転がるような格好をしたモトイが今にも死にそうな声を上げる。
 まだ六時も廻っていない。
 確かに外は雨のせいで暗いが、いつも自宅での夕飯だってまだこれから準備を始めるくらいだ。
「今日忙しかったんですか」
 モトイが忙しい時といえば、悪質な滞納者の店で暴れるとか、その程度のことだ。
 確かに暴力を振るえば空腹にもなるだろう。何か先につまみでも、と言ったきり椎葉はリビングに戻ってこない。安里は何か手伝ったほうがいいだろうかとキッチンを窺った。
「別に忙しくなかったけどさー、することないとメシ食うことばっか考えちゃうじゃん。あれって何?」
「俗に暇疲れ、と言いますね」
 答えながら安里がカウチを立ち上がろうとすると、モトイに手首を掴まれた。
 振り返ると、唇をへの字に曲げたモトイの鋭い視線が突き刺さる。
「茅島さんが行ってんだろ」
 なるほど、確かにビールを取ってくると言ったきり茅島はキッチンから戻ってこない。
 椎葉に関してだけは執着の強い茅島のことだから、安里とモトイが食事の場に邪魔すること自体、面白くないのではないだろうか。
 仕方なくカウチに腰を戻してキッチンの様子を窺うと、料理を始めた気配は感じない。
 ここは椎葉の家なのに隠れて睦言を言い合うような真似をさせるのはやはり、申し訳ないものだ。だったら呼んだりしなければいいものをと、そう言ってしまったら身も蓋もないのだろう。
「何か買ってきましょうか」
「は? センセーがメシ作ってくれるって言ってんのに? お前馬鹿じゃねーの」
 呆れ返ったように大きくため息を吐くモトイのお腹から、呼応するように腹の虫が鳴いた。
「モトイがお腹が空いたと言うからです」
 今外に出れば、傘をさしていてもだいぶ濡れてしまうかもしれない。
 それでも安里は別に構わないし、なんなら椎葉がやっぱり気が変わったから今すぐ帰ってくれと言われても気にならない。椎葉という人に限って、そんなことはしないとわかってはいるが。
「オマエさー、ああ言えばこう言うのやめろよ。すげー腹立つ……」
 自分で相槌を打つかのように腹を鳴らしながら、モトイが気力のない声で文句を垂らしている。
 今日は本当に退屈な一日だったのだろう。この雨で、事務所に詰めていたのかもしれない。
 椎葉に招かれるようなことがなければ今頃モトイは早々に帰宅をして、安里も定時で家に帰って、食事を作る間も与えられずに酷い目に遭わされていたかもしれない。まるで退屈凌ぎのように。
 今日はきっと何を言ってもモトイの癇に障る日だ。
 安里は小さく息を吐いて押し黙ると、身じろぐ気配のあったキッチンを覗きこんだ。
 椎葉と茅島の影は重なり合っているように見える。
 おそらく今朝も茅島は椎葉の家に泊まっていたはずだが、それでも数時間ぶりに会う恋人との再会というのは大事なものなのだろうか。
 自分がそれを感じ取れるとは思えないし、モトイが恋人なのかどうかもよくわからない。どちらかと言えば、ひとつの生命を分けあっている相手という感じだ。
 数時間ぶりに会えて嬉しいという気持ちはない。
 ただモトイが今日も生きていることに、深い安堵を覚える。
 人間はいつか必ず死んでしまうものだ。
 モトイのように暴力の中でしか生きられないなら、尚更。
「……何見てんの」
 いえ、と小さく呟いて安里は顔を伏せた。
 確かに、これでは椎葉たちの逢瀬を盗み見ているようなものだ。
 茅島は見せびらかして笑っているかもしれないが、椎葉はきっと恥ずかしがるだろう。
 だからと言ってすることもなければ、モトイを刺激するようなことも言いたくはない。
 安里が何かされるぶんには一向に構わないが、やはりそれは他人の前ですることではないことだと感じる。
 そういえば根本の店の地下室は改装されてテーブル席ができたという話だ。
 一緒に暮らすようになった安里とモトイにもうあの部屋は必要ないが、やはりひとつの思い出をもぎ取られたような気はする。
「どっち向いてんだよ」
 やはり、今日はモトイの機嫌が悪いようだ。
 キッチンを向いていなくても、安里が自分の膝頭をじっと見ているだけでモトイは苛立った声を上げた。
 身動きひとつ取らずにいれば動けと言われるだろうし、動けばじっとしていろと言われるだろう。しまいには息をしただけでも叱られるに違いない。
 安里は肩で小さく息を吐いて、モトイを振り向いた。
「すみません、どうしたら良いですか」
「俺の方見てろ」
 カウチの背もたれに腕を広げたモトイが、傲慢に言い放つ。
 安里は目を瞬かせて、それからぎこちなく肯いた。
 モトイのことをただじっと見ていろと言われても難しい。
 そもそもまじまじと見られていたらモトイのほうが居心地が悪くなるのではないだろうか。少なくとも安里ならばそう感じる。
 しかし言われた通りにモトイに向き直って、安里はモトイを見つめた。
 それでよしと満足そうに肯いたきり天井を仰いでしまったモトイの首筋は、相変わらず細い。
 安里が毎日きちんと食事を作るようになってからモトイは太ったんじゃないかと茅島は笑うが、とてもそうは見えない。毎日見ているからわからないだけかもしれない。
 指は長くて、骨ばってゴツゴツしている。
 鼻も小ぶりで筋が通っているし、目つきこそ悪いが眠たそうに閉じてしまえば意外と端正な顔立ちをしている。
 髪は、脱色しているところを見たことがないけれどやはりほとんど白に近い淡い色だ。
 ベッドでその髪を噛むように触れてみると思ったよりも柔らかい。唇は薄く、犬歯が発達している。何度その牙に唇を切られたかわからない。
 年齢を聞いたみたことはないが、自分より若いのではないかとたびたび思う。あるいは幼稚な性格がそう思わせるだけだろうか。
 背後のキッチンで、ガスコンロに火を灯す音が聞こえた。
 茅島に何か指示を出している椎葉の声も聞こえる。
 やはりさっきまではお互い囁き合うように声を殺していたのだろう。
「おい、安里」
 知らず、キッチンをまた振り返ってしまっていたようだ。
 髪を掴まれて首を捻られると、安里は反射的にすみませんと詫びてモトイを見た。
 さっきまで半分寝たかのようにそっぽを向いていたはずなのに、よく安里の気が逸れたことに気付いたものだ。その辺りは、動物的な勘なのかもしれない。
「茅島さんばっか見てんじゃねーよ」
 また盛大なため息を吐いて、モトイが苛立たしげにまた身を沈める。
「いえ、私は」
 茅島を見ていたつもりはない。
 しかしモトイにはそう見えていたのだろうか。何故椎葉と茅島ではなく茅島単体なのかわからない。
 お皿を用意してください、と椎葉の声が背後から聞こえてくる。
 その声もやはり事務所で聞くものとはだいぶ違っていて、優しく、甘い香りを漂わせているようだ。
 そんな椎葉を見てみたいという気持ちと、あの茅島が椎葉のような弱い男の言う通りに動いているところを見てみたいという気持ちも多少ある。むしろこういう時はモトイのほうが面白がりそうなものだと思っていた。
「オマエさ、茅島さんに惚れてんの?」
 思わず聞き返しそうになって、安里は喉を震わせた。
 よく見るとモトイの口はまだへの字になったままで、拗ねた子供のそれだ。
「いえ、まさか」
「でも一回くらい寝てんだろ」
 想像したこともない。
 さすがに安里は驚いて、混乱する頭を押さえた。
 どうしてあの茅島とそういう関係になろうと思えるのか。茅島だってそんな気になるわけがない。茅島が男に関心を持ったことなど椎葉以外一度もなかったし、安里の存在を面倒だと思いこそすれ一夜だって長く一緒にいたいと思った試しはないだろう。
 お互い同じ人間を喪った、思い出を共有しているだけの関係だ。
 そんなことを想像されるだけでも不快に思える。
 それなのに、モトイの不貞腐れたような顔を見ていると思わず唇が弛緩した。
 みっともなく緩む口元を押さえて、脂の爆ぜる音が聞こえるキッチンを振り返る。内容までは聞こえないものの、茅島と椎葉の楽しげな会話が響いてくる。
 恋というものに落ちると、人は子供になるものだ。
 それは安里がここ数年の茅島を見てきてつくづく思い知った。
 それがまさか、自分の身に再び降り掛かってくるものとは思いもしていなかった。
「だからそっち見てんなって!」
 顔を背けた安里の肩を掴んだモトイが、乱暴に振り向かせる。
 モトイに腕力で抵抗しようなんて思ったことは一度もない。安里が口元を押さえたままモトイにされる通り振り向くと、ぎょっとしたようにモトイの手が離れた。
「あ、今オマエ笑った? 笑ったよな」
「いえ」
 モトイの声のトーンが急に高くなって、好物ばかりを集めた夕食を前にしたように目が輝いている。
 さっきまではあんなに刺々しかったのに、安里が少し笑ったくらいでそんな風に掌を返してしまうのか。
 モトイを笑ったんだよと言ってやったら、また怒り出すのだろうか。怒り出さないような気がする。
 さっきまで今夜は筋を違えるくらいの怪我を負わされそうだと思っていたのに、これではまるで子犬を構っている気分だ。
「なあちょっと! 笑ってんだろ? ほら、こっち向けって! アサト!」
 顔を伏せた安里の肩を掴みながら、モトイがカウチを揺らして大きな声を張り上げる。
 そんなに声をあげたらキッチンにいる椎葉たちまで聞こえてしまうかもしれない。あるいは、二人で恋心を確かめ合っている彼らにはリビングの声なんて聞こえないのだろうか。
 確かに安里の耳にはもうキッチンの声は届かなくなっている。
 窓の外の雨は鳴りを潜めて、もうじき美しい夜空が拝めそうな気がした。