狼とロマンス
夜にはまだ早い。
藤尾はカーテンを閉め切った暗い部屋で浅く息を弾ませている男を静かに見下ろしていた。
右手には拳銃。左手には人の脂で切れ味を失ったナイフを持ったままだ。
「まだ寝るにはちょっと早いな」
室内の時計を一瞥して、藤尾は笑った。
見下ろした男の頬も引き攣ったような気がした。まさか笑ったわけじゃないだろう。
「あんた、ギャンブルは好きか?」
藤尾が退屈さにかまけて小さく息を吐きながらその場にしゃがみこむと、男が大きく竦み上がった。
アンモニア臭が辺りに立ち込める。
男の小便の匂いなんて何度嗅いでも不快なことに変わりはないが、まあ慣れたものだ。血臭とほとんどセットだから仕方がない。
「選ばせてやろうか。ハジキか、ヤッパか」
右手、左手の順で得物を小さく揺らすと男は小さく首を振った。ブルドックのように垂れた頬肉が揺れる。
「じゃあ頭蓋骨陥没コースかな。あんまり力仕事は得意じゃあないんだけど。失敗したら悪いね」
そうと決まれば鈍器のようなものを探そうと、藤尾が一度しゃがみこんだ腰を上げる。
目は既に暗がりに慣れている。組長の部屋なんてものは趣味の悪い置物のひとつやふたつは必ずあるもので、その中でも金ピカの阿弥陀如来像なんかに殴り殺されたくはないだろうから、さてどうしたものかと藤尾が思い悩んでいると足元から蚊の鳴くような声が聞こえてきた。
「……で、れ……ころ、殺さないでくれ……!」
嚥下できない涎が糸を引いた唇で、男が懇願している。
藤尾はそれを、困り切った表情で見下ろした。
「そう言われてもね。俺はもうあんたを殺す金を受け取っちまったんだよ。ついでに言うとその金で既に一杯酒を飲んでる。道義的に、この仕事は完遂しなきゃならない。それが筋ってもんだろう?」
コロシの仕事をどうと思ったこともない。
殺したくないとも、殺したいとも感じたことはない。
だけど世の社会人の一握りが自分の仕事に喜びを見つける程度には、この仕事を楽しいと思うこともある。
例えばこうやって、標的に命乞いされた時なんかには。
「金なら、俺が……!」
「金が欲しいわけじゃないんだよ。そういう筋ってのを大事にするのは、どっちかといえばあんた達やくざ者の仕事だろ?」
逆に言えば、その筋ってものを違えたからこの男は殺されるわけだ。
藤尾は大きく息を吐いて、右手の拳銃を握り直した。
男の眉間に照準を合わせて撃鉄を起こした。
S&Wのコンバットマグナム。依頼主から支給された拳銃だが、悪くない得物だ。暗がりの中でも藤尾の手の中で不気味な光を帯びている。
「俺はやくざ者というわけじゃないけどね。大人として、受け取った報酬分の仕事は遂行しなくちゃならない。さて、あんたの命は幾らかな」
ひゅう、と男の喉が不自然に鳴った。もはや呼吸もままならないのだろう。目に見えて肩が震え、藤尾を制そうとして腕を擡げたもののまるで高齢の爺のように手を上下させるだけだ。
「まま、待て、ハジキは、嫌だって」
「俺が得物を探している間にチャンスがあると思ったのか?」
そんなに震えているくせに。
きっと腰だって抜けているだろう。
藤尾は慈悲をも感じさせる微笑みを浮かべて小さく首を振った。
「さあ、――そろそろお休みの時間だ」
唇の先で、小さく呟く。
男の耳まで届いたかどうかはわからない。先に銃声が響いたかもしれない。
「藤尾さん」
ビルの下に降りると、空はまだ赤い色をしていた。
車の前で藤尾の帰りを待っていたのは灰谷だ。
体のシルエットがわかるぴったりとしたカットソーに、細身のパンツを履いている。多少カットソーが汚れているが、軽作業バイト帰りの大学生といったほうがしっくりするような出で立ちだ。足元も、機能的なスニーカーを履いている。
「お前、本当に怖いやつだな」
汗ひとつかいていないかのような涼しい顔をした灰谷を改めて見て藤尾は感嘆の息を吐いた。
は?と聞きたげな表情を浮かべた灰谷が大判のタオルを持ってビルの裏口まで藤尾を迎えに来る。
風に髪が揺れるとサラリと音をたてるようだ。まるで少女漫画のヒーローのような顔で人を二、三人殺してきたというのだから怖いという他ない。
「返り血がひどいですね」
「普通だろ」
無地のシャツが肌に貼り付いている。まだ暖かいと感じるのは藤尾の体が熱くなっているせいかもしれない。
「足あとは大丈夫ですか」
藤尾にバスタオルを押し付けた後、車内に着替えを取りに引き返した灰谷が密やかな声をかけてくる。
その場で足の裏を覗きこむと、最後に殺した男の派手に飛び散った脳漿がついていた。どうせこの靴も一度限りの使い捨てだから気にすることはないが、血のついた足あとが現場に残されているのは面倒だ。
「まあ、大丈夫だ」
しかし藤尾は嘘を吐いて、バスタオルで靴の裏も拭った。
藤尾の着替えと、返り血のついたシャツを入れるためのゴミ袋を持って灰谷が戻ってくる。
事務的で、無駄のない動きだ。
一度灰谷の仕事ぶりを見た時も同じように思った。効率的で、賢しい人間の仕事だ。
おそらく灰谷は藤尾を同類の人間なんだろうと感じさせるのは充分だった。
つまり、人殺しを特別なことだとも何とも思ってない人間の動きだ。
仕事の前に、少しだけ話をした。
灰谷は自分の父親殺しの話を滅多にしないと聞いていたが藤尾にはそれなりに話してくれた。灰谷も藤尾に何らかのシンパシーを感じてくれているのかもしれない。
母親から怯えられるというのはなかなかに堪えるものがある。まして彼女を護るために犯した罪なら、尚更だろう。
「脱いでください」
人目につかない路地裏だ。
とはいえ車を長く停め置けるわけでもない。灰谷が淡々と言いながら柄の印刷されたシャツを差し出すと、藤尾は名前も知らない人間の血に濡れた自分の体を抱いた。
「お前、こんな天下の往来で大胆だな」
「くだらない冗談はいいですから」
即座に溜息が返ってくる。
場を和ませようとして言ったことを下らないとは何事だ。
藤尾は首を竦めてからボタンを臍の上まで外すと、シャツをたくしあげて頭から抜いた。
すぐに今度は濡れタオルが差し出される。
「……お前良い嫁になれるよ」
「俺の言うこと聞いてました?」
上半身裸になった藤尾に風邪でもひかせようとしているのか、灰谷の冷ややかな視線が胸に突き刺さる。
藤尾はそれを拭うように肌まで染み込んだ血液をタオルで拭った。
「いつもそんなに汚すんですか」
「ああ、まあね。むしろお前はいつもそんなに小奇麗なのか」
まぁ、と藤尾の返事を真似るように灰谷が曖昧に肯く。
灰谷は得物を選ばないらしい。ただその身軽なのを活かして、打撃や骨折に強いとも聞いている。体格のいい男と持久戦にでもなったら不利だろうに、灰谷はその筋では死神と呼ばれているらしいから恐ろしいものだ。
藤尾が脱ぎ散らかした服を次々にゴミ袋に詰めて、灰谷が帰りの準備を進めていく。
今まで滅多に複数人での行動をしたことがなかったが、そう悪くもない。相手が灰谷だからそう思うのかもしれない。
「お前、菱蔵を辞める気はないのか」
真新しい服に着替えて最後に顔を拭うと、藤尾は灰谷の持ったゴミ袋にタオルを放り込んだ。
問いかけに顔を上げた灰谷と、至近距離で視線が交錯する。まるでプラスチックのような眼だ。ガラス球ほど澄んではいない、無機質な瞳だった。
「ありません」
「どうしても?」
「どうしても」
ともすれば吐息がかかるほど顔が近くにあったことなど気にも止めずに灰谷はそっぽを向いてしまうと、さっさと車に荷物を放り込む。
懇意にしているゴミ処理場に証拠となるようなゴミを棄てて、それで仕事は終いだ。藤尾はまだ湿っているように感じる髪を掻きあげながら運転席に乗り込んだ。
「何を勘違いされているのか知りませんが、俺が今日ついてきたのは単純に監視のためですからね」
打ち切られたかと思った話を、助手席に乗り込んだ灰谷自ら続けてくる。
藤尾はキィを回しながら、その横顔を窺い見た。
「監視? 十文字や辻が今更俺を疑うもんかよ」
どちらかと言えば、灰谷一人の手に余る人数だったから呼ばれたようなものだ。
菱蔵で灰谷がうまくやっていけるのも、菱蔵が表向きは安穏とした非武闘派組織だと言い張りたいがための大事な駒だからだ。一枚裏を返せばそのへんの強面組織のほうがよほど安全だろう。
十文字はあれで、どこか欠落しているところがある。
それが良心というやつなのかそれとも良識なのか、とにかく一見してわかる破天荒な素振りは本当に気の触れている部分を隠すための演技なんだろう。そんなものは出会った時からわかりきったことだ。
しかしそれに灰谷が気付いているかどうかは知らない。
「俺は十文字さんのところでなければこんな業界にいようとも思いませんよ」
路地裏を出て、大通りにハンドルを切る。
灰谷はどこか心酔したような表情でフロントガラスを見ながら、低く呟いた。
* * *
「只今戻りました」灰谷を事務所に送り届けるついでに成功報酬と、久しぶりに辻の顔を覗いて帰ろうと藤尾は菱蔵組のドアを潜った。
いつ来ても若い事務所だという印象だ。
組長が若ければ構成員も若い。異例の早さで出世する組長があっても多くの場合、それを支える幹部は老齢だったりすることも多いのに菱蔵は違う。
変わり者の十文字を理解できる老兵がいないということなのかもしれない。
とはいえ十文字が若いと感じているのは藤尾が未だに彼らを出会った時の高校生のように思っているからだろうか。
「おかえりー。おみやげ買ってきてくれた?」
いや、違うな。
組員の詰めている事務所を抜け、十文字の控えている奥の間に顔を覗かせた瞬間間の抜けた声に迎えられて、藤尾は胸中で首を振った。
十文字は若い。悪い意味で。
茅島ほど毛嫌いするつもりもないが。
「仕事帰りに菓子買って帰って来いって? 無茶言うな」
今日は灰谷のお陰で返り血に塗れてない方だが、体のそこかしこから血の匂いがのぼっている気がする。
とてもじゃないが、十文字の好きそうなケーキ屋に寄るような気にはなれない。いや、仕事帰りでなくてもそんな気はない。
「なんだー気が利かねえな」
机に突っ伏した十文字に、灰谷はすいませんと無表情で頭を下げている。さすがに本気で申し訳ないと思っているわけではないだろう。
すぐに瀬良が飛んでやってきて、灰谷の体を気遣っている。
顔色一つ変えずに人の命を奪うような男の何を気遣うのか藤尾には理解しかねるが、大きな体をした瀬良に庇われるように背中を抱かれた灰谷の表情がふと解けたように見えて、藤尾は目を瞬かせた。
命を獲るか穫られるかという緊張する仕事を終えた安堵感からくるものじゃない。さっきまでコンクリートの塊のように無機質だった男が、今はまるで花だ。
なんだあれは、と尋ねようと辻の姿を探して、藤尾はようやく応接セットの人影に気付いた。
「どうも、こんばんは」
驚いた。
菱蔵の雑然とした事務所に似つかわしくない、スーツの男だ。
この事務所でスーツを着る男なんて辻くらいのものだが、辻よりもはるかに優男だ。
「初めまして。小野塚と申します」
見たところ、役人のようだ。匂いが、そう感じさせる。藤尾は自分の髪にも付いているだろう血の匂いを意識しながら、慎重に十文字を見遣った。
「ああ、ヅッキーは大丈夫だよ、安心して」
「ヅッキーって誰だよ」
そうしなければならない気がして、藤尾は思わず十文字に声を張り上げた。
小野塚という男はソファに深く腰掛けたまま、はははと気負いのない声で笑っている。
しかし、ここは暴力団組織の事務所だ。いくら十文字が一見してそうとは見えない様子だとしても、広域指定暴力団堂上会の傘下組織であることに間違いはない。
その組長の目前で、初めて会う人間を前に立ち上がりもしない。
藤尾は湿度のせいでパーマの強くなった前髪の隙間から目を眇めて、小野塚を観察した。
変な動きをしたら殺す。変なことを考えれば殺す。
藤尾が十文字を護る筋合いはないが、旧知の仲だ。
室内に辻の姿は見当たらない。辻の留守を狙って訪ねてきたのだとしたら、それは正解かもしれない。辻ならば、こんな得体の知れない男を十文字の前にのうのうとさせておかないだろう。
「すみません」
小さく息を吐いた小野塚が、重い腰を上げてスーツの内ポケットに手を入れた。
意識するまでもなく、身構える。
理屈じゃなく、動物的な本能だ。
しかしスーツから手を出した小野塚の手に握られていたのは革製の名刺ケースだった。
「代議士秘書をしております、小野塚奏と申します」
応接セットのテーブルを回りこんで、慣れた仕種で藤尾に名刺を差し出す。
その距離も心得たものだ。それ以上近付けば、藤尾はその喉元にナイフを突きつけていたかもしれない。
「代議士センセイの秘書さんがこんなチンケな組に何の用だ?」
「チンケって!」
警戒心をまるで見せない小野塚の手から名刺を受け取っても、藤尾は小野塚の垂れた目から視線を逸らさなかった。十文字が不満そうに声を上げても。
政治家が極道者と懇意にするのは別段珍しいことではないのかもしれない。政治家なんて所詮、渡世人と紙一重だ。しかしそれもこちら側に有益な場合か、せいぜい持ちつ持たれつの関係であればこそ。十文字にその駆け引きができるのか、甚だ疑問だった。
「ああ、まあ――……俺としては、どこでも良かったんですけど」
苦笑を浮かべて天井をちらりと仰いだ小野塚が、すぐに首を竦めて子供のように破顔する。
そうして見せると、藤尾はふとこの顔に見覚えがあるように感じた。新聞だろうか。もう一度、手の中の名刺を見下ろす。
小野塚議員といえば名家の政治家だ。その息子が、どうして――という疑問は残ったままだが。
「逃げている最中、こちらが一番近かったものですから」
ひでー、と文句たらたらな十文字は自分のデスクの椅子でふんぞり返っている。
「逃げている? 何から」
用心棒として雇いたいという申し入れか。
よくある話だ。
さしずめ菱蔵組なら灰谷あたりにスーツを着せて後援会に紛れ込ませておけば、なんの違和感もないだろう。ただ灰谷にトラブルを処理できる能力があるのかは知らない。あいつは人殺しだ。人を殺すことしかできないと言っていい。藤尾がそうであるように。
「ちょっとー藤尾ちゃん顔怖いんだけど」
いつの間にか席を立ち上がった十文字が、小野塚との間に割って入るように顔を覗かせた。
そのふざけた顔を一瞥して、組長とはとても思えないような華奢な肩に手をかける。
「藤尾さん、その人、柳沼さんの恋人ですよ」
灰谷にコーヒーを入れ終えた瀬良が間延びした声を上げた。
「は?」
十文字の作り物めいた暢気さじゃない。瀬良の暢気さは一般人のそれだ。
その声に鳩尾を打たれたような気がして、藤尾は瀬良を振り返った。灰谷は自分の席で黙ってコーヒーを飲んでいる。あろうことか、藤尾でさえそら恐ろしいと思った灰谷がまるでペットじゃないか。
「ええ、今一緒に暮らしています」
「は?」
今度は、小野塚に顔を戻す。
相変わらず何を考えているのかわからない人懐こい笑みを浮かべている、この男が柳沼の恋人だと。
「そうだよ、ヤギーとラブラブなんだって」
「ヤギーって誰だよ」
目の前で何故か誇らしげな十文字の頭を鷲掴みにして、脇へ避ける。
「伶――柳沼とは、幼馴染だったんです。一度はしばらく連絡を取らない時期もありましたが……今は、一緒に」
一度視線を伏せた小野塚の表情が、不意に気恥ずかしさを見せた。
藤尾は職業柄、人間の隙をどうしても見定めてしまう。
敢えて見せる隙じゃない。人の気持ちが緩む瞬間だ。小野塚の心の綻びが今、見えた。
藤尾は唖然として目を瞬かせる他なかった。
「柳沼ってあの……柳沼か」
ずっと茅島の右腕だった男だ。
どこからどう現れたのかは知らない。藤尾が九州の抗争に駆り出されていて二年ほど東京を離れていた間にいつの間にか茅英組にいて、茅島の信頼を得ていた。
何度となく一緒に酒を飲んだことはあったが、どうにも信用の置けない男だと思っていた。しかしそれを言えば茅島が不機嫌になるから黙っていたら、あの有り様だ。
正直今でも柳沼のことは気に入らないが、怒りというより憐れみに近い。
柳沼は完全なる弱者だ。だから茅島のような男は放っておけなかったのだろう。無意識のうちに、自分が柳沼を護るつもりで傍に置いていたのかもしれない。
それが、今は小野塚の傍にいるのか。
「……そうか」
は、と短く息を吐いて藤尾は肩の力を抜いた。
何とも形容し難いが、そういうことか。
「まあ、立ち話もなんだから座れよ」
「ちょっと! ここ俺んちなんだけど!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ十文字を押し退けて、小野塚にソファに戻るように促す。藤尾もその正面に腰を下ろしながら瀬良に自分の分のコーヒーも頼んだ。小野塚の前には紅茶が淹れてある。
「それで? 何から逃げてるって」
「うちは喫茶店じゃないんですけどー瀬良、俺にもコーヒー牛乳……いやカフェラテ! カフェラテくださいおにーさん!」
いつの間にか十文字がちゃっかり仲人のように上座に腰を下ろして、瀬良に手を振っている。
こいつのことは気にするなと言うまでもなく、小野塚は聞き流しているようだ。
「何も守ってくれと言ってるわけじゃないんです、ただ逃げこんできただけで。……マスコミから」
「マスコミ?」
声を上げたのは藤尾と十文字、それからコーヒーを淹れていた瀬良だった。
十文字と瀬良に関しては完全にミーハー根性だろう。
「俺にまだその気はないんですけど、父が立候補しろって煩くて。まあ暫くは黙らせてたんですけど、諦めきれないみたいで」
肩で大きくため息を吐いた小野塚は本当に苦悩しているように見える。
しかしどこか芝居がかって見えるのは彼の常なのかもしれない。
藤尾は瀬良が運んできたアメリカンコーヒーを受け取りながら、首を竦めた。
「黙らせてきたって、穏やかじゃないな」
湯気ののぼるコーヒーカップに唇を寄せる藤尾の傍らで、十文字は砂糖壺を開けて大量に角砂糖を透過している。ほとんどコーヒー味の砂糖を食べようとしているようなものだ。
小野塚は藤尾の言葉に黙って双眸を細めて笑うと、ソファの背凭れに身を預けて背後の窓を振り返った。
「俺が言うなりにならないので、父はマスコミに手を回して――」
「あ、俺見ましたよそれ。昨日の新聞ですよね?」
トレイを下げた瀬良が、自分の席――灰谷の正面に戻る前に嬉々とした声を上げる。
その態度を諌めようと思う前に藤尾も思い当たるふしがあって顎を撫でた。
どこかで見た顔だと思ったが、新聞記事か。社会面なんて高尚なものじゃなく、スポーツ新聞の三面だ。
イケメン議員秘書ついに立候補か、とか何とか、大きな見出しとともにこの端正な顔立ちが映し出されていた。
改めて顔を窺って確認しようとすると、小野塚は辟易したように目蓋を閉じてしまった。
「直接言って駄目なら、周りから固めようとしているようで。俺がそういうの面倒に思ってることを知ってるくせに」
「立候補する気ないの?」
砂糖を山盛り入れたカフェラテをグルグル掻き混ぜながら、ソファの上で体育座りをした十文字が首を傾げる。
「いずれは、と思っています。同性のパートナーがいることをカミングアウトした議員も今は珍しくないですしね。ただもちろん、それには事前に伶の了解が必要になりますが」
勢いよくカフェラテを掻き混ぜすぎてカップの外に雫を漏らした十文字の手元にハンカチを差し出しながら、小野塚は言った。
簡単そうに言うが、実際は気を使うことだろう。
ただでさえ話題性のある二世議員が同性愛者だといえば、相手を詮索するゲスな輩が出てくるのは避けられない。
そうなると柳沼の身辺が心配になってくる。相手はただの一般人じゃない。脛に傷があれば前科も、クスリの後遺症もあるような人間だ。悪い虫に嗅ぎつけられないように匿っているものを暴かれたら堪ったもんじゃない。
藤尾は胸に詰まっていた息を深く吐き出して、小さく肯いた。
悪い男ではなさそうだ。
「……しかし、マスコミに追い回されてる人間が暴力団事務所に逃げこむなんて良くないんじゃないのか」
黒い関係、という見出しが踊るのが目に見える。
しかし小野塚は眉を顰めた藤尾に顔を上げると、屈託なく破顔した。
「俺と皆さんの関係が明るみに出ることは、父も本意ではないでしょうからね」
あぁ、と思わず喉から声が漏れて、藤尾は小さく仰け反った。
なるほど、確かに愛息子を跡継ぎにしたくてしていることなのだから、都合の悪い情報は父親が勝手に揉み消してくれるということか。
「……随分したたかなんだな」
独りごちるように呟いた唇は弛緩して、どこか笑ったようになってしまった。
実際、こういう男は嫌いじゃない。
茅島は小野塚のことをよく知ってるのだろうか。だとしたら、茅島も面白がっていることだろう。
「まあ、どうしようもなく面倒になったら殺してやろうか」
マスコミでも、彼が望むのであれば父親でもいい。政治家の暗殺くらいどうということもない。
しかしそこまで小野塚が父親を鬱陶しがっているようでもなければ、ただの戯言だ。
小野塚も声を上げて笑っている。藤尾が殺し屋だと知らないのかもしれない。
「そういえば、今日辻はいないのか」
事務所に入った時はどうなることかと思ったが、存外に楽しい男に出会って気を良くした藤尾がようやく思い出したように室内を見回すと、自分の机に背を向けてこちらを眺めていた瀬良が十文字の代わりに口を開いた。
「辻さんは今日は外回りです。決算後ですからねー」
「そんなもんお前が代わってやれよ」
お前は何のためにいるんだ、と藤尾が呆れてみせると、瀬良は藪蛇だと騒いで椅子を回転させてしまった。
どうして今日瀬良が事務所詰めなのかの察しはつく。灰谷がバラシの仕事だからだ。
これで灰谷がデスクワークの日だったら瀬良だって辻について行ってただろう。
それはわかるが、気持ちは理解できない。
灰谷は別段変わった様子もなくノートパソコンを開いて事務作業を始めている。しかし変わった様子がないのも瀬良がいるおかげなのだろうか。
藤尾は自分の血臭に塗れた手を握りしめて、小さく息を吐いた。
「……しょうがねえな。じゃあ、女でも漁りに行くか」
テーブルに女が着く店に行くなら、辻がいない今が最適だ。
他でもない菱蔵の依頼を受けて藤尾の懐具合も良いし、何よりも全身から立ち上ってくる血臭を紛らわせるには女を抱くに限る。
「小野塚、お前も気晴らししたいだろう。奢ってやるよ」
名家の息子に奢るも何もないかもしれないが、こういうところは藤尾も我ながら渡世人めいてるなと思う。要するに、見栄だ。
そうと決まれば早速、と藤尾が腰を上げようとすると小野塚があからさまに表情を曇らせて見上げた。
「そういう遊びは、あまり」
意外にも歯切れの悪い返事だ。
政治家なんて愛人を囲ってなんぼのものではないのか。
藤尾が目を瞬かせていると、背後からも否定的な空気が立ち込めてくる。
「俺もパスですー。灰谷さん一筋なんで」
ねっ、と瀬良が正面の灰谷に同意を求めると、当の灰谷はちらりと視線を動かしただけで終始無言だった。自分には関係ないとでも言いたげだ。
「俺も女よりステーキがいいなー。あと白米」
ソファから腰を浮かせた藤尾は思わず硬直して、途方に暮れた。
年代の違いというわけではないだろう。
そこの扉を開け放って菱蔵の構成員たちに同じ呼びかけをすれば、我先にと我慢汁を滲ませた男たちが挙手することはわかっている。
ただこの室内にいる人間が特殊だというだけだ。
「……小野塚、別に女じゃなくてもいいぞ。男でも」
「俺も伶一筋なので」
首を傾げて微笑んだ小野塚に、瀬良が大きな声を上げて「ですよね」と騒ぐ。
藤尾は勢いよくソファに腰を落として、思わず額を押さえた。
そういうものだろうか。男だろうと女だろうと、自分の恋人が性的強者であることは少なからず喜ばしいことではないのか。それだけ生物的に優れているという証明だし、数多いる他者の中から自分だけを選んでいるという優越感だって得られる。ただ一人だけに情愛を注ぐなんて、下らないことではないのか。
もしこの場に茅島がいたら藤尾の心情を理解してくれたに違いない。
「茅島……」
茅島を呼ぶか、と口に出そうとして呟いた時、ふと思い出した。
「茅島さん呼ぶんですか?」
何故か瀬良が声を弾ませている。そういえば最近射撃場によくつるんでいるらしい。
どうして俺じゃなく茅島なんだと不平を漏らすと、茅島が得意気に笑っていたので覚えている。
――その茅島の隣には、そういえばあの眼鏡の弁護士がいたはずだ。
藤尾は力なく首を振った。
「駄目だ、茅島も最近あのセンセイにかかりっきりだからな」
いつまでもつものかと思っていたが、今のところ茅島が飽きた様子はない。
茅島との付き合いは長いが、その藤尾の知る限り最長記録といっていい。だいたい茅島は同じ女を抱いたとしても三回までがせいぜいだった。四回目にもなると女の態度が鼻についてくる。あの弁護士はそうではないのかどうか、藤尾にはわからない。
茅島はあのいかにも貧弱そうな男を、大切な人間だという。
まさか茅島の口から愛だの恋だのという言葉を聞くことになるとは思わなかった。
だからか。藤尾が仕事を終えても菱蔵組などでこうして時間を持て余しているのは。
どうにもむしゃくしゃして、藤尾はところどころ返り血で固まった髪を掻き毟った。
「ああ、くだらねえな。誰か一人に心を奪われるなんてな」
弁護士の前での茅島の表情は、まるで藤尾の知らない男だった。
そんな男のせいで藤尾との付き合いが悪くなるなんてと憤る気持ちも、初恋をした餓鬼かよと笑い飛ばす余裕も、藤尾にはなかった。
「藤尾は誰か、これだーって思うやついないの?」
「はあ?」
しばらく黙っていた十文字に顔を覗かれて、藤尾は歯噛みした。
十文字の大きな目がぐるりと光を帯びて、藤尾を射抜くようだ。
こいつはたまにこういう不穏な目をしてみせる。こちらのことを何でも見透かしているような、気味の悪い眼だ。
「心に決めた人間の一人でもいないなら、何人殺したって生きてる気がしないんじゃん?」
カフェラテを呷った十文字がそう言ってテーブルにカップを戻すと、底には溶け残った砂糖が残っていた。
何も、藤尾が人を殺すのは生きているという実感を探すためでも何でもない。ただ、生きていくためにしていることだ。
心に決めた人間ならいる。ただ、それが愛だの恋だのと腑抜けたラベルで分類されていないだけだ。
そもそもそんなことを囁いた試しもない。
囁かなくても、――わかっているだろう。
不意に藤尾が顔を上げて灰谷を見ると、何かと問うように灰谷が眉を顰めた。藤尾の視線を厭がるように瀬良が椅子を滑らせて灰谷までの線を遮る。そうまでしなくても、藤尾が見ているのは灰谷じゃない。
少なくとも、藤尾を見ている灰谷ではない。
事務所に戻ってきた瞬間、瀬良の姿を見た灰谷の解けるような表情。
あれを、藤尾も知っている。
まるでこの世界に自分なんて寄る辺もなくひとりきりなのだと思い込んでいるような強張った表情の男を、無理やり解かせたのは藤尾だ。
瀬良のように優しくはしなかった。無理やり体を押し開いて、表情がしどけなくなるまで快楽に浚わせただけだ。
それでも、その黒い髪を撫でてやれば「彼」は視線を伏せて気恥ずかしそうにする。
その表情を見下ろしている藤尾の顔は、自分では見ることは叶わないが。
「藤尾さんは人好きになったこととかないんですか!」
灰谷への危機感を募らせたのだろう瀬良の尖った口で抗議されて、藤尾はそれでも逡巡した。
ぬるくなったコーヒーに手を伸ばして、目を瞑る。
「……ナイショ」
カップの中に小さく呟いて、藤尾は人知れず笑った。