RED(4)

 気が付くと、そこは病院でも俺の家でも、アトリエでもなかった。
「……――?」
 ベージュ色に統一されたベッドの上で身を起こすと、見慣れない部屋を見渡した。
 俺の頭にはまだ鈍痛が続いていて、着ているものも汗でぐっしょりだった。
 ……だるい。
 再び、倒れこむようにベッドに突っ伏す。
 此処はどこだろう。
 随分長い間眠っていたような気がするけれど、優司の夢は見なかった。
 あれは、全て夢だったのだろうか?
 優司のこと、
 優司の両親のこと
 すばるの母親のこと。
 殺すとか、死、とか
 幸いにも俺にはまだ縁遠い話だって思っていただろう、優司さえいなければ。今でも現実味は湧かない。
 それでも、俺は少し判ってきているような気がした。
 優司がどこを探してもいないということや、優司が父を"殺した"ということ
 優司の母が優司と優司の姉を殺したということや
 すばるの父が法廷で笑ったことも。
 許せなくても悔しくても、
 呪わしくても、哀しくてもきっと
 そういうことなんだろう。
 今なら、全部を知ってしまった今なら優司の寂しさを包んでやれるのに。
 優司に、泣いてもいいんだと言ってやれるのに。
「あれ、あたる起きたの?」
 ベッドに突っ伏していると、ドアの開く音がした。次いで聞こえたすばるの声。
「あぁ、……まだだるい、けど」
 無理矢理体を起こして振り返る。
 そうか、ここはすばるの家か。その割には家具も揃っているし、綺麗に整頓されている。すばるの落ち着きのなさと違って、部屋全体が落ち着いたトーンで揃えられていて、暖かい感じさえした。
「そりゃそうだよ、九度七分もあるんだもん。ぶっ倒れないほうがおかしいよ
 服替えたいだろ?はい、コレ」
 すばるは抱えて持ってきた袋から俺の衣服を放って寄越した。
 どこかで適当に買ってきたのではなく、俺のものだった。
「どうしたんだ?これ」
 汗で肌に張り付いた服を脱ぎながら尋ねると、すばるはスーパーの袋を漁って林檎を取り出しながら顔をこちらに向けた。
「高嶋さんたちに持ってきてもらった」
 あぁそう、と呟いて俺は上半身裸のままベッドに倒れこむ。
 すばるの手元で林檎の皮を剥くシャリシャリという音が妙に心地良かった。
「あたる? 辛い?」
 服を着替えるのにも、前進を真っ直ぐ保っているのが難しかった。頭が重く、ふらふらする。
「いや、だるい」
「ちゃんと上着ないと駄目だよ、暖かくして」
 不器用に皮を剥がれた林檎を口の中に突っ込まれ、俺はすばるに支えられながらパジャマの上着を着させられた。
「お前、……学校行ってんのか」
 布団に押し込まれて数分も待たずに汗が吹き出してくる。息が上がるが、林檎を頬張っていると少なくとも咥内は潤って気持ちが良かった。
「うん」
 部屋の隅に、キャンバスが二枚伏せられていた。
「そうか」
 何か俺先生みたいだな、と一人ごちて
 皿の上に置かれた二つ目の林檎に手を伸ばす。
 暫く部屋の中には俺が林檎を咀嚼する音だけが響いていた。
「どんな絵描いてんの」
 キャンバス見せてみ、と言ったら
 すばるは少し笑って
「ダメ」
 と言った。
 俺も少し笑った。
「……あたるは? 今、どんな絵描いてんの」
 もう二ヶ月近く絵を描いていない気がする。
 自画像も完成していない。
「……描いてないんだ」
 目を閉じると、見慣れたはずのアトリエの風景が遠く感じられた。
 もう描けないんだ、
 一生、描けない。
 言葉を飲みこんだ俺に、すばるは「そう」と言って話を終わらせると思った。
 でも
「どうして?」
 すばるは踏み込んできた。
 そうだ、すばるはこういう奴だった。
 俺や優司の思いも寄らない、正直で真っ直ぐな奴だ。
「うん、……どうしてだろう。好意でまだ頼んでくれる雑誌もあったのに、こんなのあんたの絵じゃない、使えないって言われちゃったよ」
 俺は描くことが好きだっただろうか。
 俺は今まで何のために描いてきたんだろう。
「あたる」
 すばるは少し考え込んで、伏せられていたキャンバスに手を伸ばした。
 見せたくなかったけど、と前置きをして表に返す。
 そこには、俺がいた。
 デザイン化されたイラストにはなっていたが。
「あたるを描くよって言っただろう?前」
 まだ未完成だけど、と言ってすばるは照れ臭そうに笑う。
 すばるの絵にはやっぱり、鮮やかな色がふんだんに散りばめられていた。
「あたる、もう一度俺を描いてよ。ユージさんじゃなくて、俺を。
 いつでもいいよ、待ってるから。
 神野さんの絵じゃなくてもいいから、あたるの手で、あたるの目で俺を描いてよ。
 そしたら俺も、今までのこと全部捨てて
 ちゃんと、ただのすばるとして、頑張れる気がするんだ」
 そう言って笑うすばるの顔は、
 優司に似てなんかいなかった。
 そこにはすばるしかいなかった。
 どんな時でも芯の強い目で俺を真っ直ぐ見て、優しく笑うことの出来るすばるしかいなかった。
「――あぁ、いいよ」
 俺は、
 この年下の青年にどれだけ救われるんだろう。
 優司、俺は優司だけを愛しているよ。だけど
 優司の弟も幸せにしたいと思うんだ、いいだろう?
「すばる」
 俺は今までで一番大切に、その名前を呼んだ。
「悪かったな、たくさん。……泣きたい時は、泣けよ」
 ベッドの上掛けから腕を出してすばるに差し出す。
 すばるはキャンバスを膝の上に伏せると、笑って
「そんなの判ってるよ、言われなくても。俺は泣きたい時くらい、なく……よっ」
 それから両目にいっぱい涙を溢れさせた。
 俺は黙ってその頭を抱いた。
 ただこうしてやれば良かったんだ。
 泣いて良い。
 寂しいならみっともないくらい他人にしがみ付いて泣いたら良い。
 俺は少しならその寂しさを減らしてあげられるから。
 お前は独りじゃないよ。