knocking on your door・Ⅱ(3)
俺が物心ついた時には、母親は既に俺の母親ではなくなっていた。
どうやら法的には俺の父親ということになるらしい男の情婦の一人に過ぎなかった。
彼女は、悪い人間ではなかった。だから俺のこともきっと愛してくれていた。今なら判る。
俺の境遇はテレビの中のドラマみたいなものなんかではなくて、高校だってきちんと通えたし、同性しか愛せないんだということを理由に自主的に家を出るまでは、とりあえず俺の居場所のある家だった。
酷い暴力を受けたこともないし、生傷が耐えなかったなんてこともなかった。俺は。
俺は何も、人に言えるようなことは全然されてない。
もう今となっては実家の記憶なんて殆どないけれど。
「憎んでくれることすら、しないだろうね……」
そう言った男の顔は、何だかぼやけて見えた。
この人は本当に俺の父親なのかな?
昔母に少し聞いたことがあるくらいの名前を手がかりにやってきてしまったけど、もしかしたらあんなのは母の他愛ない嘘だったのかもしれない。
「俺にとってあなたは、知らない人……ですから」
なのに俺の声は、知らず、震えた。
男は細めた目で俺を見て、口髭の下に薄く開いた唇からため息のように「ああ」と呟いて
「そうだね」
と、気弱なことを言う。
俺はこんな情けない男に会えないことで、今まで自分を責めてきたのか?
「あの人は……どうしている?」
背中を丸め、膝の上に手を組んだ男がおもむろに俺の顔を仰いだ。
男の目の色が急に深い色をたたえた気がした。
芯のある、強い目だ。
ただの年寄りなんかじゃなくて、俺よりもたくさんのことを成し遂げてきた男の目。
「……あの人?」
俺は相手に促されたように、腹の底に力を込めた。
こういうの、腹を据えたって言うんだろう。
「……君の、お母さん」
俺の、母親。
あなたが捨てた女だ。
「君が生まれてから一度しか会っていないけど、君には別の父親ができたのかい」
男が指を組みなおした。
視線を落とすと、その皺だらけの指先が光っているように見えた。
汗をかいているのか。こんな、俺なんかを前にして。
「えぇ」
俺が短く答えると、男はそれ以上何も言わずに数回肯いた。
「あの人は、幸せかい」
男の穏やかな声。
俺は思わず掌を握り締めた。
全身の筋肉に電流が走って、言葉を失った。
「……判りま、せん」
知らず、息が荒くなる。
強い勢いで心臓から頭まで、急激に血が上っていくような気がする。
目を閉じる。
俺の今までの人生はすべて、あの母親に、あの『父親』に、この男のせいで、決められてしまったんだ。
「俺には判りません。あの人があれで、幸せなのか」
目を閉じたまま、呼吸の乱れを男に悟られないように答える。
脳裏に去来する日常茶飯事のセックスシーン。
見ず知らずの大人たち。汚らしい夜の宴。
それは俺の記憶の中で徐々に形を変えて、俺の身の上に起こった売春行為になっていく。
知らない男に組み敷かれる俺の体を、聡志が見下ろしている。笑っている。
俺は聡志を、こんな目に遭っても信じていたのに、信じていたかったのに。
恋なんて愛なんて、いつも幻想だった。
優しさも思いやりも、うわべだけのもの。
俺は多分今でも、何も信じることができていない。
だから、俺に好きだなんて言わずに抱いてくれる彼のことが好きだった。
「……俺に妹がいることは、知っていますか」
俺は男に視線を向けないまま尋ねた。
俺が生まれてから一度しか母親に会っていないという男が知るはずなんてないけど。
「今は、もういません」
俺には妹の記憶があまりない。
二歳離れた妹は、俺が家を出る数年前まではいたのだろうけど、多分、俺が意識的に削除した記憶の中にあるんだろう。
「いない、……?」
男が驚いたように呟いた。
俺は顔を上げて、男をにらみつける。
そうでもしていないと震えだしてしまいそうだった。
「えぇ、父親っていう男に殺されたんです」
俺の静かな声を聞いて、男の表情が蒼白した。
口元を弛緩させ、瞳孔を開いてソファの背凭れに、男が肩を沈めた。
「家に来る奴らに薬漬けにされて、さんざん強姦された挙句にね」
それでも彼女の死は、新聞に載せてみたら俺の掌に隠れてしまうほど小さなものだった。
彼女は薬のせいで死んだ。
だけどそれはまだ日本では法的に取り締まりにくい立場のものだったし、彼女の死体に残されていた精液の殆どは彼女の「婚約者」のものだったから、事件性は取り沙汰されなかった。
彼女は俺のように不幸だっただろうか?
それも俺には判らない。
彼女こそ幸せを知らない人だったかもしれない。
幼い頃から母親と同じように情婦として扱われ、中学には途中から通わず、薬にはまってからは自分をいうものを持たず、そのまま死んでいった。
それが不幸と人は言うのかもしれないけど、彼女自身がどう思っていたのか、俺には判らない。
「……いいんですよ、驚かなくても」
これは俺にとってただの事実でしかなくて、強姦も薬も、目の当たりもしたことのない人間が驚くほどのショッキングなことではないんだ。
多分、人が死んだということが俺の中では物珍しいくらいで。
「あなたは人の死を知っていますか?」
それでも俺は、少し感傷的になってしまっていたようだった。
こんなくだらない質問をした自分を、恥ずかしく思った。
この歳になれば葬式の一つや二つ、参列していないほうがおかしい。しかも銀行の頭取と来た。人付き合いは相当広いんだろう。
「……あぁ、私も、息子を一人、亡くしているからね」
そう答えた男の唇は弛緩して、まるで微笑んでいるようにも見えた。