knocking on your door(13)
俺はその日を境に、なんだかひどく「生きやすく」なった。
それまで生き難いと感じたこともなかったが、なんだか幸せだった。
仕事も順調で、家に帰るとミズノの帰りが早い日にはメシが出来てて、ミズノよりも俺の帰りが早い日には仕方なくメシの仕度なんかしてやってミズノの帰りを待って、ミズノの笑う顔も何となくなじんできた。
それが偽りなのか本当なのかは俺にはわからねぇし、判ったところでどうかしてやることもできねぇし、考えることを止めた。
生きやすくなったんじゃなく、楽をしているだけなのかもしれない。
ミズノがたまに口にする過去の辛い話も素直に聞くことができるようになったが、やっぱり聞こえない振りをしていた。
ミズノも本当は話したくなくて、だけど聞いて欲しいのだと、いつか言っていた。
ナニ言ってやがんだ、じゃア俺はどうしたらいい、と尋ねると、ミズノは泣きながら笑った。
「斉丸は斉丸の好きにしなよ」
そう言って。
言われなくても俺は俺の嫌なことはしねぇ、と俺が顔を顰めると、ミズノは声を上げて笑った。
ミズノは俺が計り知れないほど多くのものを抱え込んでいて、俺はそんなのに付き合いきれるほどリッパな人間じゃねぇ。
ミズノはその後、俺に何度も抱かれた。
その気がないなら言えよ、と俺は言ったが――俺はミズノを金で買うような男どもとは違うんだから――ミズノはただ、判ってるよ、としか言わなかった。
俺はセックスの最中にだって、間違ってもミズノを好きだとは言わない。
それはミズノにも伝えた。
ミズノは心底嬉しそうに笑って、うん、と承知した。
変なヤツだ。
俺が気紛れにミズノを抱くのと違って、ミズノが俺に触れる時には俺の了解を求めた。
「斉丸、……触っても、いい?」と。
俺が答えないのがOKで、手を振ったらNGらしいが、触られるくらい何でもない。ミズノは俺がイラついているときなんかはきちんと判っているようだし、結局俺がミズノの提案したNGの素振りを示したことはない。
ミズノは、胡坐をかいて雑誌を開いている俺の背中にくっついてきてはしんとしていたりする。
触っていいか、と尋ねるくらいならもっと気の済むようにしたらいいんじゃないのか、と尋ねるとミズノはあどけない表情で俺を見上げてから、急に気恥ずかしそうにする。そんなガラかよ。
「別に、……俺は、これくらいのが良いんだもん」
「あァそうか、セックスも好きじゃねぇしな?」
俺がからかって、わざと顔を覗きこむとミズノはあからさまにむくれた。
「斉丸っ! ……俺が言ったのは、そういうことじゃないよ……」
怒ったように窄められたミズノの唇から力が抜けていく。睫毛を深く伏せ、ミズノの表情が徐々に白くなっていく。
「強要されるセックスなんて、最悪だ」
ぽつりと漏らされたミズノの言葉に、俺ははっとした。
これは言わせてはいけなかったんだと、思った。
『本当は話したくないんだ』というミズノの言いたくないことを、『だけど聞いてもらいたい』と思う前に無理やり言わせてしまったのかもしれない。
「……斉丸」
ばつが悪くなって再び背を向けた俺に、ミズノが擦り寄ってきた。
後ろから抱きすくめられて、耳に吐息がかかる。濡れた吐息。
「斉丸、しようよ」
俺はガラにもなく背筋をゾクリとした感触にさらわれて、全身の力が抜けそうだった。
下半身に力奪われちまってんのか?
ミズノの、俺を抱く手に力が篭った。
「斉丸、……好きだ」
ミズノの湿った唇が耳朶に吸い付き、濡らしてから離れる。首筋に頬を懐かせるようにすり寄ってきた。
「好きだよ、だから」
俺は仕方ねェな、と呟いて見せながらミズノの腕を引いて、俺の胡坐の上に引きずり込んだ。
「触る、と誘うのは違うんじゃねぇのか」
俺が笑うと、ミズノも笑った。腕を伸ばして、俺の背にしがみつくように腕を回す。
「俺、セックス好きだよ」
ミズノの柔らかい髪に鼻先を潜り込ませながらその体臭を嗅ぐようにすると、ミズノはそれだけで俺を跨いだ両足をピク、ピクと緊張させた。
「斉丸のことが好きだ」
ミズノの髪をやんわりと引いて、俺から顔を引き剥がす。乱暴になり過ぎないように、しかし優しくもし過ぎないように。
引き離させた顔に薄く開いている唇を貪ると、ミズノが鼻を鳴らした。
「俺はあんたのことが好きなわけじゃない」
ミズノの舌をしゃぶりながら、ミズノが着けたシャツを裾からたくし上げる。
「そこが好き」
ミズノの手も俺の服の中を探り始めた。掌が熱い。それとも、俺の躰が熱くなっているのだろうか?
「夢見てんじゃねぇ」
唇を離すと、唾液が糸を引いた。それを啜り取ってやると、ミズノが更に唇を求めてきた。しどけない仕草で。
「夢? 夢って?」
唇の先を啄ばんでから、舌を伸ばすミズノを避けて鼻先に齧り付く。ミズノが可笑しそうに片目を眇めた。
「あんたが思ってるような俺じゃねぇってことだよ」
ミズノの胸の上に指先を這わせた。ミズノが鼻先で小さく、声を漏らす。
「じゃあ斉丸は、本当はもっと優しくて、実は俺のことも大好きなんだ?」
冗談のようにミズノは言ったが、俺にはそれは冗談に聞こえなかった。失敗してんじゃねぇよ。
「ああ、そうかもな」
俺は必要以上に無愛想に答えた。
「ねぇ、斉丸」
ミズノが気紛れにばかり動く俺の顔を両手で押さえて、強引に吸い付いてくる。
大きく唇を開いて舌をねじ込んできて、俺の唾液を欲しがる。俺がそれにされるがままになりながら、指先で探り当てた乳首をピンと弾くと、ミズノは尻を緊張させながら俺に腰をすり寄せてきた。
息を弾ませながら唇を離した後ミズノの顔を見ると、ミズノは心を引き絞られるような表情で俺を見た。
「俺、ここに居てもいい? 斉丸のところにいたい。斉丸から、離れたくない」
泣きじゃくるようなか細い声。
――本音、と信じたい。
俺はどうしたらいいか判らなくて、だけどこんな状態で――弱々しい力の腕で絡め取られて、俺の唇にはミズノの唾液がねっとりと染み付いていて、聞こえない振りなんて出来ない状況だった。
いつもみたいに逃げられない。そう思うと、俄かに緊張した。
さあな、別に、そんな返答じゃ不自然だ。
あんたの好きにしろ、そう言うくらいなら素直に良いよと言ってやりたいが、俺は確かに良いよ、とは思ってるわけでもない。
出来るだけ正確に、素直に答えてやりたかった。
だから
「水野サン」
俺はミズノの首筋に顔を伏せた。
俺の背中を抱くミズノの腕は、ひどく居心地が良かった。
俺が何を答えても許してくれる、どんな返事でもしやすいように、だけど恋してやまない、ミズノの腕。
ミズノは俺が好きだと言う。
だから、俺がどんな答えを出しても許してくれようというんだろう。大きくて暖かい、愛情だ。
俺は恋愛なんてものを知らなかった。
本当の恋心なんて実在しないと思っていた。
映画の中には確かに存在しても、あれは実在しない美しいものだからこそ人々が憧れて描く、天国や桃源郷や、そんな類のものだと思っていた。
だけど今なら判る。
その切ない感情が。
どうして恋愛映画に、多くの人間が涙するのかが。どうしてみんなが真実の愛に憧れてやまないのかが。
「一つだけ、教えてくれ。そんなこと、あのサトシとか――他の男にも、言ったのか」
胸の中に突き上がってくる得体の知れない感情に、俺はミズノをきつく抱きしめた。
「言ってないよ。信じて欲しい」
そう答えたミズノの声は、いつもより低く凛として聞こえた。
男らしい声だ。
「俺がこんなに好きなのは、斉丸だけだよ」
だけどそう言った晩の翌朝、ミズノは姿を消した。