天使の恋(15)
「ひびきが、……好きだよ」
俺の髪の上を優しく抱いた手をそのままに、武は繰り返した。
「た、……武、だって、お前……」
そんなことにわかに信じられない。俺は全身を硬直させて、頭が真っ白になっていくのを感じた。
「俺みたいな奴に好かれたって、ひびきが迷惑なこと判ってる。だけど……好きなんだよ、だから一緒にいたいんだ」
武の語尾が震えた。静かに往復していただけの武の胸が引き攣ったようになって、息をしゃくり上げ始める。視線を上げると、武は開いたままの眸から大粒の涙を零していた。
「たけ、……」
俺は困惑して、何か大きなものでも詰まったかのように息苦しい喉を振り絞り、武に掛ける言葉を探した。
「武、泣くな。武」
そんな風に泣かれても、俺はどうしたらいいか判らない。
「大丈夫、大丈夫だ武。泣かなくったっていい。お前は好きなだけここに居て良いんだ、だから、あの……」
俺も、お前を好きだから。
――そう言おうとして、俺の脳裏に知里の顔が過ぎった。
俺がそんなことを言ったって、どうせ信じてもらえないんじゃないだろうか。
しかもあんな風に武を酷く犯した後で。
俺は掛ける言葉を失って、ただ泣きじゃくる武をぎゅうと抱きしめた。こんなことしたって何にもならないかもしれないけど、少しでも武の気が納まるように、俺のしたことを詫びるように、祈るような気持ちで。
武は一旦驚いたように動きを止めたけど、やがて俺の背中に腕を回した。
そうして、苦しかった長い夜を取り戻すように俺も武も、ようやく眠りに落ちた。
目が覚めたのは、武が先だったようだ。
俺が重い目蓋をこじ開けると、すっかり高くなった日の光りの中に武の顔があって、俺の顔を見ていた。
――ひびきが好きだ
消え入るような声で告げた武の言葉が、俺の胸を射抜くように蘇ってくる。俺は思わず、武から目を逸らした。
「お早う」
短く言って、ベッドから身を起こす。
「何か、食うか」
武に背を向けてベッドから降りると、武が背後で相槌を打った。
俺みたいに照れているという風でもなく、いつも通りの口調だ。ただ、寝惚けているようではあるけれど。
意識していることを覚られないようにしながらキッチンへと逃げ込んだ俺はトーストにピーナッツバターを挟み、再び寝室へと戻った。
「ありがと」
俺からパンと飲み物を受け取った武が、双眸を細めて小さく笑う。
「……武」
俺はパンに噛り付いた武に背を向けてベッドの縁に腰を下ろし、言葉を選んだ。
「ああいう金じゃなくても、俺は、金なんて要らないよ。宿泊代としてお前を抱くことも、しない」
これからは、と慌てて付け足すと、背後で武が笑ったのを感じた。
俺のしたことは最低のことだ。だけど、それを責めるような武じゃないだろう。俺が罪悪感を忘れなければ、それでいい。俺は謝罪や償いじゃなく、しっかりと武の気持ちに向き合って、武を幸せにしていけばいいんだ。
「お前はこれからのことをゆっくり考えていい。お前はここに居ていいし、俺も、お前の傍に居たい」
出来る限り言葉を選んで、俺は自分でもその意味を噛み締めるように言った。
……武の返事はない。相槌さえ。
ただ、背中に武の視線は感じる。俺が恐る恐る振り向くと、武は目を丸くしていた。
「――……ひびき、何言ってんの? 寝ぼけてんじゃない?」
人をこ馬鹿にしたような台詞。それだけ聞けばむっとしそうなものだが、そう言った武の顔は真っ赤にのぼせ上がっていた。
「何、って」
「俺は別にセックスなんて金代わりにしか思ってないし、あの、だから……ひびきの言ってることよく判んないよ。あと、別に俺がここにいるのは生活費節約のためだ、から……あ、の……だから……」
珍しく――じゃない、初めて見る、完全にうろたえた武の姿。
真っ赤になって、しどろもどろで視線も泳いでいる。
「武、お前先刻……俺に」
忘れてるのか? 何を言ったのか。それとも俺の夢だったのか?
俺はベッドの上で身を反転させ、武に向き直った。その瞬間。
「うわ――――――――――ッ!」
急に大声で喚き、俺の声を掻き消した武が首まで赤くなって、頭から布団をかぶった。
「おい、武」
何だ何だ、どうしたんだ? 持病の発作か何かか。
慌てた俺が布団の上から揺すっても、武は亀のように丸くなって、びくともしない。
「武、お前俺のこと」
好きだって。
……自分でそんなことを言う気になれなくて、俺は言いよどんだ。
「言ってないッ! 何も言ってない!」
武のくぐもった喚き声が、布団越しに響いた。
……何を"言ってない"んだか……。
俺は、武に聞こえるように盛大に溜気を吐いた。一気に呆れて、肩の力も抜けた。
「俺はしっかりと聞いたぞ、お前のクチから5回も、たっぷりとな」
武と出会って早十数ヶ月。俺は初めて武の優位に立ったと感じた。
俺の方がずっと武に惚れていたんだし、そういう意味では俺は相変わらずいくらでも虐げられそうなもんだけど、武がこんなにもうろたえるような秘密を聞いてしまったとあっては、俺はふんぞり返るほかない。含み笑いすらこみ上げてきた。
武はまた大声で喚きたてるかと思ったが、意外にも今度は布団から鼻の上だけを覗かせて、俺を上目で見た。その眸は潤んで、ぞくぞくとするほど、可愛らしい。
「…………だから、駄目だ、って……言ったんだ」
か細い武の声。
俺は勝ち誇るポーズを止めて、武の言葉を聞き返した。
「――ひびきは、宿泊回だけイかせろみたいなこと言ってたけど、俺、宿泊日数に忠実にヤったことなんてないよ。……知らなかった? まさか」
まさか、も何も。
俺はぽかんと口を半開きにして阿呆のような顔で目を瞬かせた。一体どういうことだ?
俺が唖然としていると、武は頭からかぶった布団を翻して、俺を殴った。
「馬っっ鹿じゃねぇの!」
赤面して涙目の武に言われたって、腹も立たない。殴られた肩も大して痛くない。
「……だから、駄目だって言ったんだ」
また急に声のトーンを落とした武が、ベッドの上に座り込んで背中を丸める。
「どういう意味だよ。何で宿泊日数と関係なくて、なのに駄目って――……」
俺が問い質そうとすると、その顔面に今度は枕が投げつけられた。今度は少し痛い。
「ッたた、……お前、暴れんな――」
「だからぁ!」
照れ隠しのように大声を張り上げる武に、俺の小言が遮られた。
「……だから……もう、バレちゃったんだから仕方ないけど……バレないように、してたんだよ。なのに」
バレないようにって、隠してたのか。……つまり、俺に対する気持ちを?
「なのに、ひびきいっつも……すげぇ、んだもん。……人の気も知らないでさ、……俺いっつも言っちゃいそうで、やばくって、これ以上、あと指一本でも触れられたらガマンできない、抱きついて、好きだから――もう離すな、とか俺のもんになれ、とか……ここまで出かかって」
深く俯いた武の、しおらしい口調で紡がれる告白に俺はみるみる鼓動を早くさせた。眩暈すら覚え、呼吸も忘れるほど緊張してきた。
そうか、俺は今まで武に自分の気持ちをぶつけることに精一杯で、回数なんてまともに数えたことが無かった。武にもうお仕舞いと言われたら――もし回数を数えていたとしたって、武に嫌われるのが怖くて――素直に止めていたから、白状させられなかったのか。
だけど、どうして? どうして武みたいな奴が、俺のことなんかそんなに好きになる要素が、自分じゃ思いつかない。セックスが上手いからとか、そういうことだろうか?
俺がついそのまま口に出して尋ねると、
「ふざけんな馬鹿!」
容赦ない怒鳴り声と、二度目のパンチ。布団から飛び降りた武は、俺のこと本当に好きなのかよって言うくらい凄みのある目で、睨みつけてきた。
「言ってんだろ?! 俺にとってはセックスなんて全然何でもないんだよ。ひびきよりすげぇセックスする奴なんて山ほどいるんだ」
噛み付くような言葉を吐いた武の鋭い瞳に、再びじわり、と涙が滲む。
「武、……」
じゃあ何で、と聞くことはもう出来なかった。
表情を歪め、傷ついたような武はそのまま怒りに任せて部屋を出て行こうとした。その背中を慌てて抱き止める。
「武、……ご、ごめん……。ごめん、武」
武の背中は震えていた。
また、泣かせてしまった。
「あの、……武」
参った。どうしたら良いんだ。判んねぇ。
俺はとにかく、武の肩をぎゅうと抱きしめた。
「ごめんな、俺、よく判んねぇ。あの、けど……俺も、だから、あの……」
ぐっと腹の底に力を篭める。惚れた相手に好きだって言うことは、少しも怖いことなんかじゃないはずだ。
「……好きだから」
出来るだけ武に俺の本当の気持ちが伝わるように、俺は丁寧に言葉を発した。
今までずっと、好きだった。武を守りたいと思ったのも本当だ。これからもずっと守っていきたい。
それを言葉にしなくても伝わるように、俺は武の首筋に項垂れて、武の肌深くにその言葉が染み込んでくれることを願って告げた。
「…………、ぷっ」
次の瞬間。
俺は自分の耳を疑った。
武が俺の腕の中で、大笑いを始めたのだ。
「ッおい、! 武!」
先刻まで泣いてたじゃないか! ていうか人の渾身の告白を!
俺が全身の毛が逆立つような思いで武の顔を覗き込むと、けろっとした顔をしている。
「あはははははは! ひびき、本当? 今の。もう一回言ってよ。俺のこと好き?」
武は涙の後の一筋すら見せず、悪戯っぽくキラキラと瞳を輝かせながら、可愛らしく小首を傾げた。
ま、また嵌められたのか……?! 一体どこからが、この性悪な小悪魔の罠だったっていうんだ?
「もう一回言ってよ、ねぇねぇ。……じゃないと、また泣くよ」
わなわなと怒りと照れくささで震える俺に向き直った武が、俺の腰に腕を回して顔を仰ぎ見てくる。その眸はもう微かに潤んでいるようにも見える。……女でもねぇくせにそんなもん武器にするなっつーんだ!
「ふざけんな! お前はどうなんだよ!」
俺の真剣な告白を腹の中で笑われていたのかと思うと、もう大声を上げずにいられない。先刻までの武と同じように。
「ひびきのこと? ……嫌いじゃないよ」
俺の腹立ち紛れの問いにさらりと答えた武が、楽しげに笑う。
「ひびきのセックスは、好きだけどね」
このヤロウこのヤロウこのヤロウ! どこまでが本当なのか、さっぱり判りゃしねぇ。
「ああ、でもひびきが俺のこと大好きで離れたくないって言うなら、ずーーっと一緒にいてあげるね。セックスも、もっともっと善くしてもらうために教育してあげても良いよ」
……けど、
そんなことを言って可笑しそうに笑いながら、背伸びをした武が俺の鼻先に口付ける表情を見ていると、惚れた弱みって奴なのか、どうしようもなく可愛くて
「ああ、……そりゃ、どうも」
俺は怒りの矛先を納めて、脱力してしまうしかなかった。
俺の腰を抱いた武が、まるで俺の躰を自分のものだとでも言うように好き勝手にぎゅうと引き寄せ、胸の上に頬を押し付けているのを見ると、あながち全部が演技でもないような気もしてくるし。
「じゃ、もう一回言ってよ」
武は子供のように無邪気におねだりをした。もうどうしようもない。俺はこの天使――子悪魔が、可愛くって愛しくて、仕方がないんだ。何度だって言ってやるよ。
「……武が、好きだよ」
観念した俺の言葉を聞いた武は下唇を噛むように笑って、首を伸ばした。そうするのが当然だというような仕種に唆された俺が、その桃色の唇にキスをするまで、決して離してはくれないだろう。その甘い呪縛から。