WINTER NIGHT(4)

 深夜になって目が覚めた。
 辺りは静まりかえり、しんとした音が耳を裂くようだ。
 咽喉がひりひりと焼け付くように感じる。ひどく咽喉が渇いている。これも後遺症の一つに過ぎない。そうと原因が判ったところで耐えられるような咽喉の渇きではないので、ベッド脇に設けられた小さな冷蔵庫から何か飲み物を取ろうとして、――気がついた。
 手首が拘束されている。
 無意味なことだと知りながら、二度ほどその腕を引いてみた後で、諦めた。
 両手はベッドのパイプに繋がれて、きっと起床時間が来るまで外されることはないのだろう。
 まったくおかしなことだ。
 この病院に放り込まれて以来、柳沼が一度ならず自殺を図ったことは確かだし、幻覚に襲われて暴れたことも事実だ。
 柳沼を拘束するのは致し方ないのかもしれない。
 だけど最近じゃおとなしいものだ。
 見舞いに来たモトイに飼い馴らされやがってと毒を吐いたりもしたものだが、今の自分の体たらくだって酷い有様だ。
 もう何もかも諦めた。
 自ら死ぬことも、意地を張って生きることも。
 自分が何を主張しても、どんなに言葉を駆使しても結局このベッドの上で大人しくしているしかないのと同じように、自分は生かされるしかないのだ。今はただ、この温い日々に身を任せるしかない。
 最初の内こそ茅島の糞意地悪い罰なのか、と笑えてきたりもしたものだけど、最近は何もかも判らなくなってきた。
 モトイの言っていたことが正しいのかもしれないとさえ思える。
 あんな犬の言葉を理解出来ると思えることも、これも薬の後遺症なのかもしれない。
「――……、はは」
 乾いた唇の上下を割るようにして掠れた笑い声を上げると、柳沼は眉を潜めて枕に頬を埋めた。
 こんな風にきつく拘束などしなくても、もう平気なのだと看護婦に言っても意味を為さないだろうか。
 きっと自殺志願者も精神破綻者も、みんな一様にもう大丈夫だ、と主張するのだろうから。
 だけどもう本当に大丈夫なのだ。
 ここ数日、こんな拘束をされないようになってきたというのに、こんな夜に限って決して外れることがないようにきつく縛り付けてある。
 病院側の都合に過ぎない。
 年を跨ぐこんな夜に、面倒な患者に手を煩わされたくないだけなんだろう。
 自分たちがゆっくりと年を越したいから、倫を踏み外した薬中患者は身動き一つできないようにしておけということだ。
 しかも暴力団崩れの患者なんて、出来るだけ関わりあいたくないという腹なんだろう。
 茅島からたっぷりと金は振り込まれているはずなのに、この扱いか。堅気の人間の方がよっぽど腹黒い。
 柳沼がいくらこの狭い個室で畜生と恨み言を吐いたところで、極道落ちした半端者の言い訳か。
 咽喉が渇いた。
 咥内の唾液を飲み下すことも出来ない。舌の根まで乾いて、気が変になりそうだ。
 極道の人間はどれだけ見栄を切れるかの世界なのだと、以前誰かが言っていた。
 しかし柳沼は、この世界に入ってから今まで何度「助けてくれ」と口にしたか判らない。
 こんな世界に入りさえしなければ一生言うことはないかもしれなかったのに。こんな目にさえ遭わなければ。
「――……ッ!」
 力任せにベッドを殴りつけようとした手を、振り上げることも出来ない。ただ拳を力いっぱい握り締めるだけだ。
 苦しい。
 こんなに苦しい思いをするくらいならいっそ死んだ方がマシだ。
 自分の命を救うことの一体何が悪い。
 他に誰も救うことなど出来ないのに。自分しか救うことが出来ないのに。
 生きても死んでも地獄なら、どっちで苦しむかは自分の勝手だ。
 柳沼はこの病院の金蔓になるためだけに今生かされているようなものだ。
 肩をばたつかせる。
 ベッドが軋んだ音を上げて、手首が引き千切れそうに痛んだ。
 このまま力任せに腕を引けば手首がもげ、大量失血をして死ぬことができるだろうか。
 咽喉の渇きに意識が朦朧とするとそんな馬鹿げた妄想が浮かんできて、柳沼はベッドのシーツを蹴りながら必死で体を上へと引きずり上げた。
 もう少しで肩が外れそうだと額に冷たい汗を浮かべながら笑みが零れた時、ふと、冷蔵庫の上に月明かりが差した。
 カーテンの隙間から漏れてきたその光が、眠りに落ちる前にはなかったものの形を浮かび上がらせる。
 柳沼は目を凝らして、ベッドから身を乗り出した。
 暗い室内を裂くようにして月光が「それ」を照らし出す。
「……、」
 それは、小さな鏡餅だった。
 掌ほどの大きさの癖に、きちんと御幣が垂れ下がって、ご丁寧に橙代わりの金柑まで乗っている。四方紅はなく、ただ餅の下には見覚えのある几帳面な字が添えられていた。
 朝になったら新年の挨拶に訪ねてくるという。
 その短い書置きを確認すると、柳沼は全身の力が抜けるのを感じた。
 皺だらけになったベッドに身を沈め、冷や汗を拭うように枕へ頭を擦り付ける。
 あいつがどんな顔をして、柳沼の枕元でこれを飾り付けていったのかを想像すると、腹の奥がむず痒いような気持ちになる。
「――……こういうのは一夜飾りっていうんだ、馬鹿が」
 奥歯を噛みながら小さく呟いた唇は、渇きを忘れていた。
 あと五時間もすれば訪ねてくるだろう男の顔を思い浮かべると、柳沼は静かに目蓋を落とした。