WINTER NIGHT(3)
休み何日まで、とモトイが訊いたのは年末の28日のことだった。
その頃になってようやく、世間が冬期休暇に入ったことに気付いたのだろう。そして、安里が月曜になっても仕事に行かないということにも。
「……、五日までです」
安里は自分の部屋の天上を仰ぎながら逡巡した後、答えた。
ここのところ、根本の店へは行っていない。正確にはモトイが怪我を治して帰って来てからは一度もだ。
その時は安里は事情を正しく知っていたわけではなかったが、モトイはあの日根本の店から――安里の元から、直接茅島を殺しに行ったのだろう。
モトイはこうして帰ってきた。
しかし、根本の店の景色を見たのはあれが最後ということになる。もう見ることもないだろう。
モトイが柳沼と一緒に暮らしたマンションの景色をもう見ることがないのと同じように。
それが安里にとって嬉しいことなのか苦しいことなのかは判らない。柳沼からモトイを奪おうという気などなかった。今でも奪えたとは思ってない。思えない。
ただ、柳沼の傍にいることでモトイが死ぬのなら、モトイが安里の家に出入りするようになったことでモトイが死なずに済むのなら、それだけは良いことだと思えた。
世の中の良いも悪いも全ては個人の主観にしか過ぎないし、そんなことを振り分けることに意味はないとずっと思ってきたけれど、モトイが死なないでいてくれることは、安里にとって意味のあることだった。
少なくとも、モトイは安里より先に死んではいけない。
「ふうん」
最近、安里が部屋の天上を仰ぐと必ずと言っていいほどその視界にはモトイの顔が映っている。
それはベッドの上でも部屋の床でも同じことだ。
あるいは安里が部屋の床に顔を打ち付けている間はモトイの顔を見ることはない。その代わり、背中にはいやと言うほどモトイの体重を感じる。いや仰向けにされていても同じか。
安里は首に回ったモトイの五指がゆっくりと安里の咽喉仏を締め上げていく感覚を覚えながら、視線を逸らした。
床の上に放り出した自分の手の指先が冷えているのが判る。暖房をつけていても、あまり床から起きていることを許されていないから仕方がない。
モトイはこんなに泥のように冷たい自分の躰を抱いていて楽しいだろうかと考えることがたまにある。しかしもしかしたら、自分の躰を冷たいと思っているのは自分だけかもしれない。
躰の内部はモトイの熱棒で擦り上げられて熱くなっているのかもしれないし、確かにモトイに打たれた尻たぶは裂けるようだと感じた後でじわじわと熱くなってくる。
今もそうだ。
震えるほど力が入ったモトイの指先から上にある顔は、血がうまく下がることが出来ず熱を帯びている。苦しい。咽喉が詰まって、安里は反射的にモトイの手に指先を掛けた。冷たい指先を。
モトイは安里をいたずらに虐めているだけに過ぎない。だから殺しはしない。してくれない。
だけどもしかしてモトイが手の力を緩めるタイミングを誤って安里の生命を脅かすようなことがあれば、屍体の発見は五日以降ということになるだろう。
椎葉はいつも時間を違えることのない安里が出勤してこないことを不審に思って様子を見に来てくれるに違いない。茅島は椎葉の一報を受けて、モトイの仕業だと見抜くだろう。それから先のことは安里には判らない。
モトイの処分を茅島がどうするかなんて、考えたって判るはずのないことだ。
茅島にとって安里は組員にもならないただの道具の一つだ。それを壊したモトイを責める理由にはならない。
安里を失くしたモトイはどうか思うだろうか。
出来れば思わないで欲しい。
安里は何度も繰り返しなぞった願い事をもう一度辿りながら、浅く繰り返した呼吸を止めて目蓋を閉じた。
安里の上に馬乗りになって男根を突き入れたまま、腰を動かしもしないでただ安里の首を締め上げているだけのモトイの掌の体温をやけに感じる。そこから鼓動を得ているかのようだ。繋がった下肢の方がよほど、熱を帯びているはずなのに。
モトイが安里に対して何も思わないでくれたら良い。
それは心の底からそう願っているはずなのに、そう願えば願うほど、まるで自分に言い聞かせている望みのような気さえしてくる。
柳沼を失ったモトイの痛々しさを安里はいやというほど見てきているのに。
遺された人間の気持ちなんて、ろくなものじゃないのに。
閉じた目蓋の端から冷たい涙が滴り落ちて、髪の生え際を濡らしていくのを安里は感じた。瞬間、自分の意思とは関係なく全身が大きく痙攣してフローリングの床の上を跳ねた。意識が混濁する。
痙攣を合図にしたように両の手を解いたモトイが、その手を安里の細い腰に下ろして手繰り寄せるとがむしゃらに男根を突き上げてきた。
そうされて初めて、安里は窒息する寸前に自分が射精していたことを知った。死の際にあって精液を吐き出すことは動物の本能として間違ってはいない。だとしたら、今夢中で安里の中に種を植え付けようとしているモトイの行為は何なのか、判らない。
酸素を極端に欠乏して朦朧とした安里の顔を平手で打ちながら、モトイは荒い息を吐いている。
モトイに突き上げられるたびに弛緩した舌を唇の外に食み出させて唾液を嚥下することも忘れた安里は、それでもモトイの不毛な性行為に躰の芯が疼くように感じていることを自覚していた。
それがモトイにいつか殺されることへの発情なのか、それともモトイの精液に汚されることへの陶酔なのか、あるいはこれが愛なのかは判らないけど。
「――だけど、」
ひとしきり安里の中に劣情を吐き出した後で、モトイはベッドの上から毛布を引き摺り下ろしてきて安里の肩に不器用に掛けた。
ぐったりとしたまま動かないでいる安里を心配したのかも知れない。
安里は声が出るかどうか確信がないまま、思い切って呟いてみると、出た。一緒の毛布に身を滑り込ませてきたモトイが首を捻った。
「大晦日には年越し蕎麦を、……それからお正月には御節と、お雑煮を」
床に手をついて身を起こそうとすると、安里は思いのほか自分の体の下が濡れていることに気付いた。汗をかいていた。床から引き剥がした躰が少し、肌寒いと思うほど。
あんなに冷たいと思っていたはずの自分の掌を見下ろして安里が目を瞬かせていると、モトイの腕が伸びてきて安里の肩を引き寄せた。言葉の先を促すように。
モトイが安里の正月休みを尋ねたのは、きっとその間なら動けなくなっていいほどの怪我を負わせて大丈夫だからだと思ったからだろう。安里自身、それを拒むつもりはない。しかし、腕が使えなくなっては料理をするのに支障がある。
「あなたに食べさせたいと、思っているんです」
モトイはもしかしたらそんな日本的な行事を知らないような気がしていたから。
ぽつり、ぽつりとしかモトイ自身のことは語られないけど、安里が何か食事を作るたびにモトイは知らないことが多かったから、きっと正月の過ごし方だって安里とは違っているのじゃないかと思う。
安里の身を起こして顔を覗きこんだモトイが、安里の言葉を不思議そうにして首を傾げている。
年越し蕎麦も御節もお雑煮も、言葉自体知らないことだって充分に考えられる。
安里はそれらの慣習をうまく説明できる自信はないけど、もし出来るなら、モトイとそれらを一緒にかこみたいと考えた。それが叶わないなら叶わないで、悲観するようなことでもないけど。もし出来るなら。
「アンタってさぁ」
乱暴に衣服を剥ぎ取った安里の足の間に手をついて、物珍しそうに顔を近付けてくるモトイの声は、大きい。
最初の内こそ、この安アパートの一室で聞くその声が異質で眉を潜めたくなったりもしたものだけど、今はもう慣れた。
「……なんで俺の名前呼ばないの」
モトイの視線は、強い。
うっかり視線を合わせてしまうと、まるで脳の裏側まで銃口を捻じ込まれたように感じる。
肉食動物に捕食された弱い生物というのは、きっとこういう感じなんだろう。牙で皮膚を食い破られたが最後、後はその口元でぶらぶらと身を揺らしているしかないのだ。
安里は返答に詰まって、唇を噤んだ。
「俺の名前、知らないの」
知ってる。
柳沼が呼んでいる名前だ。茅島も彼をモトイと呼んでいる。
それが本当の名前なのかどうかを知らないだけで。
調べようと思えば調べることも出来るのかもしれない。彼の本当の名前を。しかし、今まで彼に関わる人間はみんなそうしようとしてこなかった。
こういう世界だ。素性なんて知らない方が良いこともたくさんあるからだろう。安里にだってそんな古傷がないわけじゃない。
「変なの」
視線を伏せて黙り込んだ安里から不意に興味をなくしたように、モトイは顔を逸らすと毛布の上に寝転んだ。
服もろくに着けていないのに、眠ろうとしているようだ。
安里は慌ててベッドの上から上掛けをもう一枚手繰り寄せると、モトイの体に掛けた。
「――今日の夕飯何」
セックスの後で疲れているだろうモトイが、もう眠ってしまったものかと思っていると突然声を掛けられて、安里は驚いた。
とりあえず服を着ようと伸ばした手を引っ込めて、目を瞬かせる。
「おーみそかって、31日のことでしょ。その日はソバ食うの? じゃあ、今日は何?」
振り返った安里に、モトイは片目を開いて窺っていた。
今日は、何でもない年末の一日でしかない。夕飯は普通で、まだ特に決めてない。安里が言葉に詰まったままでいると、モトイは上掛けを顎のすぐ下まで引き寄せながらまるで猫のように丸くなった。
「ま、何でもいいや。出来たら起こして」
そう言ったきり、モトイは目蓋を閉じて眠ってしまったようだ。
安里は暫くその寝顔を見下ろしていてから、小さく息を吐いた。