秘密(6)
最後まで久瀬を気遣う蔵原が、家まで送ると言うのを固辞して、久瀬は家路についた。
ただでさえも蔵原と親しくなりたいのが目に見えている女性に対して肩身が狭い思いをしていたのに、そこまでされたら恨まれるに決まっている。
一軒目の店を出てすぐに別れた久瀬に、その後のあの女性の運命は判らない。
ただ、うまくいっていれば良いなと覚束ない自分の爪先を見下ろしながら、久瀬は祈るように思った。
女性を可愛らしいと思うほど、そんな彼女たちを好きになれない自分が欠陥品のように感じていた。高校生のあの日から、ずっと。
好意を抱いてはいても、それが恋愛感情のそれにはならない。
自分は人を愛することができない欠けた人間なのだと周囲に言い出すことも出来ないまま、誰の身体にも触れずに、触れられずに二十数年生きてきた。
結果、そんな久瀬の身体を開いたのは松岡だった。
初めて触れられる身体の隅々に、言いも言われぬ快感を覚えて自分が何者だか判らなくなった。
女性にキスをされても何の感慨も覚えなかった身体が、松岡には反応してしまう。
蔵原に気安く触れられることさえ厭うのに、松岡に命じられれば自分から触れることができる。
やはり自分は欠陥品なのだ。
こんな気持ちは、報われはしないのに。
終電を最寄り駅で下車して、自宅を構えるマンションまで数メートル。途中のコンビニエンスストアで買ったミネラルウォーターを呷りながら、久瀬は千鳥足を楽しみながら帰宅した。
鞄の中にしまった自宅の鍵を取り出そうと手を入れると、指先に冷たい携帯電話が触れた。
「――……、」
着信があったことを告げるLEDが瞬いている。
足を止め、履歴を開くと松岡から二度、電話がかかってきていた。
その頃久瀬は蔵原に追加の酒を頼んで、声をあげて笑いながら自棄になって嚥下していた。
蔵原が言った通り、そんなに飲める方じゃない。食事もろくに摂らずに胃の中を満たした酒は、身体の中を焼け付かせるように熱く暴れている。吐き出してしまえたらどんなにいいか、と思うのに、久瀬は冷たいペットボトルの水を飲み下してそれを押し止めている。
携帯電話を閉じて、ポケットに捻じ込む。
マンションの影が見えてきた。今日は何も考えずに眠れるだろう。これだけ酔っているのだ。道端で寝こけずに済んだのが奇跡といっても良い。
久瀬は道なりに点在する電信柱に凭れかかるようにしながら短い距離を蛇行しながら歩いた。
その時、ポケットの携帯電話が震えた。
足を止める。
ポケットに手を伸ばしながら、目の前に見えた自宅マンションの扉に目を引き付けられる。
長身の、影があった。
顔までは見えない。しかし、人影は道端の久瀬を見下ろしながら耳に腕を上げている。その手には、携帯電話が握られているようにも見えた。
恐る恐るポケットの電話を取り出して、通話ボタンを押し下げる。
『――随分ご機嫌だな』
開口一番、松岡は言った。
自宅の前に佇む人影は廊下に取り付けられた柵に腕を預けて、路傍を眺めている。
『俺からの電話も取らずにどこで、誰と一緒にいたんだ?』
久瀬は、喉を鳴らした。
片手に下げたペットボトルを握り締める。
「別に、……今日くるなんて聞いてなかったから。昨日きたばかりだし、……休日にどこへ出かけようと、勝手だろ」
知らず、久瀬はマンションの前の人影から視線を落とした。
あれが、松岡とも限らないのに。
『ああ、もちろん。でも、電話くらいは出たっていいんじゃないか?』
反論した久瀬に対して、松岡の声は笑っているように聞こえた。余裕に構えているようで、その大きく構えた態度が、底冷えするような怖さを感じる。
『どこで、誰と、何をしてた』
松岡の声が、ぐっと低くなった。
アスファルトに落とした久瀬が思わず目蓋を瞑ると、松岡に直接耳元で問い詰められているような気になった。
「――……ない…」
『何だ? 聞こえない』
久瀬は、震える唇をきつく結びなおした。
腹の底から煮えたぎるように、何かが込み上げてくる。酒じゃない。もうずっと、抱え込んできたものだ。
「松岡に、関係ないだろ」
声が掠れた。
蔵原が楽しく盛り上げてくれた酒の席は、久瀬には楽しいと感じることはできなかった。
どんなに笑って見せても、気持ちはずっと重いままだった。
鞄の奥にしまいこんだ携帯電話のように、久瀬は塞ぎこんでいた。
『お前、俺にそんな口を聞いていいのか? 俺の機嫌を損ねたら、お前はただじゃ済まなく――』
笑い出すかのように思われた松岡の声は、驚いているように聞こえた。
久瀬が顔を上げると、マンションの人影も身を起こして棒立ちになって久瀬を見下ろしている。
「松岡が暴露するような証拠は、もう何もないよ」
久瀬は、まっすぐその人影を見つめた。
泣き出してしまいそうだった。
ずっと怖くて、言い出せなかった。
「横領した金額なんて、もうとっくに戻し終わってる。金が移動した履歴だってもう残ってない」
――契約期間は、終了だ。
それを松岡に知られることが怖かった。
自分でも馬鹿げていると、何度も思った。
どうして好き好んで、こんな関係を甘んじて受け入れているのかって、松岡から連絡のこない晩は広く感じるベッドの上で一人で何度も思いを巡らせた。
『――……』
松岡は黙っている。
久瀬の前を通り過ぎる車のエンジン音が、耳元の携帯電話からも響いてくる。
久瀬は、小さく笑った。
「あれから何年たってると思ってるんだよ。……とっくに終わってたよ」
だけどそれを松岡に言ってしまったら、――いや、自分で認めてしまったら、久瀬が松岡に抱かれる口実がなくなってしまう。
それでも松岡に訪ねてきて欲しいなんて言う勇気はなかった。
今だってない。
だから、これでお終いだ。
暗い夜道を走り抜けた車のテールランプが小さくなる頃、久瀬は無言のままの携帯電話を耳から下ろすと、通話を切った。
扉の前の人影はまだ携帯電話を構えたままでいる。
あれは松岡ではないのかもしれない。しかし、久瀬はその姿を目に焼き付けるように暫く見詰めた後で、踵を返した。
一人であの部屋に帰る気がしない。
もうすっかり酔いは醒めている。あのベッドで寝付けるとは思えない。
「――待てよ!」
駅から来た道を引き返した久瀬の背中に、肉声が響いた。
松岡のこんな声を、聞いたことがなかった。
寝静まった夜道に響いて、コンビニから出てきた若いカップルがこちらを振り返った。
久瀬は足を早めた。どこに行くあてもない。でも、もう松岡に従うことはできない。言いなりになる口実は手放してしまった。
力強い足音が響いてくる。
久瀬はたまらずに、駆け出した。しかし数メートルと走らずに、肩を強く掴まれた。
ただでさえも酔っている身体だ。久瀬は松岡に捕らえられるなり、その場で膝を崩した。
「っ! おい……」
驚いたように松岡がその身体を支えて、抱き起こす。
久瀬が視線を上げると、汗ばんだ松岡の顔がそこにあった。
いつも称えてるような不敵な表情はなく、蔵原に対して向けられるような気さくな笑顔もない。
「――なんだ、酔ってるのか?」
力の入らない久瀬の身体を抱きなおすと、松岡は久瀬の身体から立ち上るアルコールの匂いに眉を眇めた。
「酔ってる、……けどさっき言ったのは本当だよ。――もう、松岡の言うことを聞く必要なんてない」
久瀬は、重い腕を上げると松岡の胸を押し返すようにして身を捩った。
もうこの腕に抱かれることもない。
もう二度と、永遠に。
「……いつからだよ」
抵抗などなかったことのように松岡はびくともせず、久瀬が伸ばした腕を掴んだ。
掌が湿っている。
走ってきたからなのか、そんな長い距離でもないのに。
「いつから、黙ってた」
久瀬の腕を掴む松岡の手は強かった。
まるで、久瀬を離すまいとするかのようだ。
それはそうだ、もう、久瀬は松岡に捕らえられている必要はないのだと、暴露してしまったのだから。
「――……半年くらい、前」
横領した金を戻すのに時間はかからなかった。海外出張が重なる取締役の経費を削って、そこに久瀬の口座からの金を埋め込めば一度に大量の返還をすることができた。
久瀬は足元に落とした視線を遮るように、目蓋を落とした。
久瀬を支えた松岡の呼吸が乱れている。
あんな風に理不尽で、手酷く扱われた後だって言うのに、それを聞き逃したくないと思ってしまう。
どうしてそんな風に思うのか判らない。
知ろうとも思わずにきた。
「松岡、手を」
「どうして黙ってた」
松岡の指の跡が残ってしまうのじゃないかと思うほどきつく握られた腕を振り払おうとしても、松岡は許さなかった。
まるで苛むように久瀬の耳元で声を荒げ、その後で苛立たしげに息を吐き出す。
どうして黙っていたのかなんて、言いたくない。
それが言えるようなら、こんなことになってない。
久瀬は首を竦めるようにして深く俯くと、唇を噛んだ。唇を開けば涙まで溢れてきそうだった。
「――どうして……」
ぽつり、と松岡が漏らした。
自分の声かと思うほど、弱弱しい声だった。久瀬は驚いて松岡の顔を仰いだ。
「どうして、愛してるって言えないんだ」
松岡の顔は路傍の街灯に照らされて、まるで困惑したように、眉尻を下げている。
こんな松岡の顔も、見たことがない。
「それ、……俺に言ってるの」
知らず、久瀬は聞き返していた。
舌の根まで出掛かっていた涙が、下がっていく。
久瀬が目を瞬かせると、松岡も首を捻った。
「いや、……どうかな。自分に言ってるのかも知れない」
いつも自信に満ち溢れて、尊大な態度しかとらない松岡が不安げに顔を顰めている。
久瀬は、松岡につかまれたままの腕に顔を押し付けて吹き出した。
松岡を笑ったりしたら、松岡の機嫌を損ねるかもしれないのに。
「笑うな、お前にだって言ってるんだからな」
肩を震わせて静かに笑う久瀬の腕を揺らして、松岡がまるで――不貞腐れたような声で咎めた。まるで威圧感を感じさせない。
「大体、お前がもっと早くにそうと言っていれば、こんな気分にならなくて済んだし――昨日だって、あんなことをしなかった」
顔を伏せたまま笑う顔を仰向かせるように、松岡が久瀬の髪に手をかけた。
無意識に、肩が強張る。
髪を捕まれて床になぎ倒されたのは昨晩のことで、――どうしてそうされたのが、久瀬のせいなのか知らない。
久瀬が笑みを掻き消して松岡の顔を窺うと、松岡は相変わらず渋面でいた。
「お前が蔵原ともこんなことをしてるんじゃないかってな、……だから、昨日のことは悪かったって思ってるよ。詫びを入れようとしてもお前は電話に出ないし」
呆気に取られた久瀬に眸を細めると、松岡は苦々しい表情で口を噤んだ。
確かに、電話に出なかったのは悪かったかもしれない。しかし、これではますます、今日どこに行っていたのかは言えない。
「ご、――ごめん、でも、蔵原くんとは……」
「眼鏡をかけてないし」
松岡が威圧的に、久瀬の言葉を遮った。いつの間にか久瀬を見下ろす視線に不安げな色が消えている。
久瀬は、体中に刻まれた松岡に対する従属感を思い出して、視線を伏せた。
「それは、松岡が昨日――……」
顔を下げようとした久瀬の顎に、松岡の指先が滑り落ちる。有無を言わさずに引き上げて、仰向けさせられた。
この身体に逆らうことは罪だと、教え込まれている。
「口答えをするな」
命令する松岡の唇が近付いてきて、久瀬は目蓋を下ろした。自然に唇を開いて、松岡の舌に差し出す。
口答えをする気など毛頭ない。松岡が求めてくれるなら、理由なんてなんだっていい。
「お前は俺のものなんだから、俺の言うことだけ聞いてりゃいいんだよ」
大きな掌に頬を押し付けながら、久瀬は松岡の首に両腕を回した。
そんなこと、命令されるまでもなく、そうするつもりだ。