LEWD(95)
黙ってしまった加賀見に別れを告げて、私は通話を切った。
我ながら偉そうな口を叩いたものだ。若林が聞いていたら大いに笑われたことだろう。いや、彼にはもしかしたら笑うことは出来なかったかも知れない。私には彼はうまくやっているように見えるが、彼は彼なりに二人の女性や自分の子供に引け目を感じているのだろうから。
若林のことを思い出すと気持ちがいくらか軽くなっていくのを感じた。
携帯電話をスーツのポケットに仕舞う。
いつか、若林には私の話をしてやる必要があるかもしれない。今までは彼に私の私生活を全て話してきたつもりでいた。私の妻と彼の細君が友達だった所為もあって、共通する話も多かった。とても良い友人だった。
私が妻の不貞を知った時も、若林は何も言わずに私に煙草を勧めてきた。妻が出て行った後のがらんどうになった家で、同僚に連れて行かれた風俗店の話をする私にも、若林はただ笑っていた。
今でも覚えている。自棄になりかけた私に若林は酒を空けながらただ一言、泣くのか?と訊いた。泣ける筈がなかった。妻を寝取られて泣ける筈もなかったし、それは自分の所為だと思えば余計に泣けなかった。
泣くのか、と訊かれた私はただ、若林の肩を小突いて笑った。
妻の子供が無事生まれたことを知らせてくれたのも若林だった。
しかしここの所一緒に酒をやることもなくなったし、何よりも今私がこうして男を抱いていることも彼は知らずにいるだろう。吉村のことくらいなら、理解は出来ないと言えないこともないかも知れないが、加賀見のことや多田のこと、――そしてlewdの話を
いつか話してやらなければいけないだろう。
大事な友人だからこそ。
私は自動改札の認証面にカードをあてると駅を通り抜け、ちょうどホームに滑り込んできた電車に急ぐでもなく乗り込んだ。
車内には転寝をしているサラリーマンや講義を終えて遊びに行くらしい学生の姿、塾に向かう制服姿の小学生の姿もあった。
私の妻が産んだ子供は今頃、どんな子に育っているのだろうか。想像しても仕方がない。私とは縁もゆかりもない、人間なのだ。
見慣れた景色の中を、電車が駆けていく。
もう何年間も、同じ風景を同じ時間に見ていた。こんな半端な時間の、しかも平日に電車に乗ることはなかったが。
私は変わったのだろうか、この数ヶ月で。
無感動で無関心で、心はいつも乾いていた。私の目に映る空はいつも曇っているように感じた。吉村の無邪気さが眩しくも思えたが、憧れることも、瞼を細めて光を避けることも出来ないくらいに私は凝り固まっていたのだ。石のように。
lewdからのメールが届いたあの日から
私は何か変わったのだろうか。
それともまだ、変わっている途中なのだろうか?
見慣れた駅で電車を降り、歩き慣れた道をいつもと同じスピードで歩く。
こうしているとあの淡々とした日々がまた蘇って来るようだ。心の渇きを知ることが出来たのは、今私が渇いていない所為なのだろうか。
エントランスホールを入り、エレベーター脇のポストを見ると私の名前が張り出されていた箇所には今は白紙が挟み込まれているだけだった。まだ誰も入居していないのか、それとも年頃の女性でも住んでいるのかも知れない。
エレベーターに乗り込み、何百回も押したであろう階数に光を灯す。
私が彼と逢ったと知ったら、吉村はどうするだろう。
私のために努力をすることを止めるだろうか。それとも、こんなに不誠実な私のために身体を売る自分の惨めさに感じ入るだろうか。
私は止まったエレベーターの中で、小さく笑みを浮かべた。きっと彼はどっちもしないだろう。
ゆっくりと廊下に足を踏み出す。
犬のように耳の良い、いつかは毎日のようにこの足音を聴き覚えていたであろう彼は私が近付いてくる気配を感じているだろうか。もう既に、勃起を始めているかも知れない。一体どんな姿で迎えてくれるのだろう。
私は自分のかつて住んでいた部屋の扉の前を通り過ぎると、隣の家のドアノブを
捻った。