knocking on your door・Ⅱ(1)
車のエンジン音が遠くで聞こえていた。
胸の鼓動ばかりが俺の耳を打つ。
緊張のあまり、意識が遠のいていくような気がする。
何度も喉を上下させて生唾を飲み込む。
目蓋はしっかりと押し開いているはずなのに視界が狭まってきて、ここがどこ何だか判らなくなってきていた。
広い部屋の上品なアイボリーの壁が、俺の身を押し潰してきそうな気がして、俺はぎゅうと力いっぱい目を瞑った。
得体の知れない不安感が俺の体を徐々に蝕んで、それはやがて恐怖になった。
――怖い。
膝の上で握り締めた拳が、まるで血を通わせなくなったように冷えてくる。
やっぱり止めよう、と思い始める自分を必死に押し殺す。
今、逃げ出すのは簡単だ。
先方は俺が誰だか告げられているわけでもないし、俺がこの人に会おうとしていることを知っている人間はいない。
誰も、俺がここから逃げ出したことを責めたりしない。
そう、俺がこの人から逃げ続けてきた自分自身を許せなくて、ここにいるだけなんだ。
俺は今、俺のためだけにここにいる。
きっとあの人は今更俺に会いたくなんかないに決まってる。
俺の存在も忘れているだろう。
俺が会いたいと思っていることは、あの人にとって迷惑以外のなにものでもない。
――そうだ。
俺がしようとしていることはすごく自分勝手なことなんだろう。
今なら間に合う。
早く逃げ出そう。
あの人のために、多くの人たちのために、簡単なことだ。
ソファを立ち上がって、扉をすり抜けて、今来た道を足早に引き返していくだけでいい。
……だけど、俺の体はまるでセメントを詰め込まれたように重くなって、動かない。
今逃げ出して俺は、どこに帰るんだ?
俺の行くところなんてない。
昨日、郊外の公衆電話から彼の声を聞いた。
――どこにいるんだよ!
責められているような、すがりつくような怒鳴り声。
彼は決して、帰って来いなどとは言わなかった。
俺を抱いても好きだとは言わないように。
俺がどこにいるのか、昨日の電話で言っていたら、彼は次に何て言ってくれたんだろう。
俺はこれから実の父親に会ってくるよ。
きっと、言葉を失ってしまうんだろう、彼のことだから。
せいぜい「そうか」――その程度。
それを優しさ、としか表現できないけど、きっとあれは彼の生来の優しさで、俺はその飾り気のない優しさを愛した。
ずっと、溺れたいと思った。
彼が俺を愛してくれなくても、嘘でも好きだと言ってはくれない、そのことが嬉しくて、そんな俺のことをきっと彼は判っていないだろうけど、俺は彼の強さを分けてもらった。
いつまでも他人に押さえつけられていたくないんだ。
――笑え!
彼の言葉をまた一つ、思い出した。
俺よりも痛い表情をして、
――いいから、笑ってろ!
声の限りに叫んで、彼は俺に言った。
俺は彼とは対等に生きたかった。
彼の前ではちゃんと心から、笑いたかった。
彼に胸を張れるような人間になりたかった。
「お待たせしました」
樫のドアが、音も立てずに開いた。
「!」
俺の全身には雷が落ちたように痛みと衝撃が走って、息が止まった。
さっきまであんなに重かった体が跳ね上がって立ち上がり、硬直したように突っ立ってしまう。
背中から伝い落ちた冷や汗が、足の先まで滑り落ちていくようだった。
「――……」
相手も、扉の前で俺を凝視している。
早く、早く挨拶をしなくては。
この人は、俺のことなんて覚えていないんだから。
「……透……?!」
白髪の混じった口髭を携えた唇が、掠れた声で俺の名を呟いた。
震える指先が、ドアを後ろ手に閉める。
「透、……透、なのか?」
悲痛に眉が寄る。だらしなく弛んだ皺だらけの目蓋が、濁った目の上に垂れてきて、震えている。
今にも涙が零れ落ちてきそうな表情。
どうしてそんな風に、泣けるんだ?
「……初めまして」
俺は、少し俯いた。
俺とこの人は会ったことがあるんだ、という認識だけど、記憶にあるわけじゃない。
酔った母親から、会ったことがあるのよと嘘か本当か、聞かされただけだ。
「――……、」
その人はさすがに言葉を失って、俺の向かい側のソファに腰を落とした。
どちらからも、何も切り出せない沈黙が続いた。
ソファの前に用意された応接テーブルはよく磨きこまれていて、俯きがちの俺とその人の顔を映したけれど、俺はそこからも視線を外した。
部屋の床に敷き詰められたカーペットは毛足が長く、高級そうだった。
「……、」
沈黙が三十分も続いたという頃、掠れた声でその人が口を開いた。
「元気で、やってるのか?」
ようやく紡ぎ出した言葉がそれか、半年間会ってなかった普通の親子でもあるまいし。
俺は胸中の失望を苦笑に変えて、目を伏せた。
俺はあなたに見捨てられてから、新しい父親という人に酷い仕打ちをされてきました。
耐え切れずに家を出てからは男に体を売って、愛した人に裏切られて生きてきました。
あなたのせいではないんでしょう、でも――……
「……あなたは?」
口に出して教えてやる気にもなれない俺の半生を飲み込んで俺が視線を上げると、老いぼれた男は微笑むように目を細くして、泣き崩れるように唇を歪めた。
「透、……」
呼びかけられた言葉を遮る。
「その呼び方はやめて下さい」
初めて会ったに等しいくせに、懐かしむような真似はしないで欲しい。
俺とあなたは血が繋がっているのかもしれない、でもそれだけだ。
俺はあなたに会いたくて来たわけじゃない。
あなたは、俺の人生を狂わせ始めたきっかけだから、俺が過去と向き合うために来ただけだ。
「君は、私を憎んでなんていないんだろうね」
目を伏せる仕草。
頼り甲斐のない細い肩。
ただの年寄りだ。
「憎んでくれるほど、許してはくれないだろうね」
その人はそう呟くように言って、弱々しく笑った。