DOUBLE BIND(1)
唐突に茅島が柳沼の見舞いに行け、と言った。
十一時に出社することが決められている事務所に、モトイが十二時に顔を出して、すぐのことだった。
聞くと、柳沼の退院が決まったという。
――モトイは一瞬、どんな表情をしていいか判らなくなって混乱した。
柳沼がそこまで回復したのだと思えば、それは喜ばしいことだ。飛んで行って、何でも世話を焼きたい。
きっとあの傷ついた腕では髪を洗うこともできないだろうから、いつものように丁寧に洗いたい。食事も作れないかもしれない。モトイは食事を作ることはできないけど、買い出しならできる。
今度はもう柳沼から離れずに、柳沼の周りに近付いてくる害悪を取り払いたい。
だけど、それはきっと無理だ。
「……俺、……行っていいの」
自分が今どんな顔をしているのか確かめるように頬を触ったモトイが呟くように茅島へ尋ねると、茅島は訝しむように眉を顰めた。
「行きたくないのか」
すぐに、モトイは首を左右に振るった。
柳沼が退院できるほど良くなったなら会いたいに決まっている。
それでも薬物の後遺症は長い間残るだろうから、柳沼がまた死にたがらないようにずっと付き添いたい。
でもそれは、茅島の元から離れるということだ。
柳沼はもう茅島の元へは戻れない。それは感情でも何でもなく、どんなにか茅島が柳沼の世話を焼いても、もう柳沼が茅島の組の名簿に名を連ねることは決してない。
それなのに、モトイを引き取ったはずの茅島が柳沼の元へ戻ることを勧めるのはどういうことなのか判らない。
「行って来い」
まるで飼い犬に骨を投げるような気安さで茅島は言う。
モトイは柳沼のものだ。
そんなこと、茅島だって知っているはずだ。骨を投げたらそのまま戻ってこないかもしれない。それで良いと思っているのか。茅島がモトイを預かると言ったのは、文字通り、柳沼が快方へ向かうまで一時的に預かるだけのつもりだったのか。
それが嬉しいことなのか悲しいことなのか、モトイは計りかねた。
「茅島さん、……あのね、俺は」
頬に宛がった指先を痛んだ髪にずり上げて、頭を抱えるように髪を掴む。
どうしてだか判らない。安里の顔が脳裏に過ぎった。
「――前の組に戻りたいよ」
柳沼も茅島も、選びたくない。
茅島の下にいる柳沼に飼われていたかった。
それがたとえ、茅島を殺すための準備期間に過ぎなかったのだとしても、モトイが初めてここに留まりたいと望んだ場所は、あの時の、この場所だった。
「それは無理だ」
茅島は開いた新聞紙を捲って、こともなげに切り捨てた。
柳沼の元へ戻って、また柳沼がモトイを飼ってくれるかも判らない。
役立たずだったモトイは柳沼にとって必要ないかもしれない。
茅島だって、自分を殺そうとしたモトイを本当は嫌々預かっていたのかもしれない。
「……知ってるよ」
居場所なんて永遠に続くものじゃないことを知っている。
モトイは小さく唸るように呟くと、新聞紙に視線を伏せたまま顔を上げない茅島を一瞥してからゆっくり踵を返した。
それでも、茅島が見舞いに行けというなら行く。柳沼に会いたいからだ。
「モトイ」
今潜ってきたばかりの扉を押し開いたモトイの背中に、茅島が相変わらず視線を伏せたまま声をかけた。
「ついでにお使いをしてきてくれ」
放って投げた骨をまた手繰り寄せるように、茅島は言った。
茅島はコーヒー豆を買ってきてくれと言った。
病院の近くのコーヒーショップの豆が旨くて、どうしてもそれを今日飲みたいのだとか何とか、ご丁寧に銘柄まで指定してモトイに使いを頼んだ。
柳沼の見舞いに行きたがるのはいつもモトイで、茅島はそれを許してくれている。だからきっと、今日のことだって大した意味はないのだろう。
柳沼の退院が決まったからそれを教えてくれた、それだけの話だ。
だけど柳沼がシャバに出てくるのならモトイにとってそれが特別な意味にならないはずもない。
柳沼が茅島の用意した病院にいる限りはまだ以前の関係と同じだと、モトイは勘違いしていたのかもしれない。
柳沼が退院すれば、茅島の保護下から本当に消えてしまう。
それが怖いのかもしれない。
「…………」
ぐちゃぐちゃとかき乱れる気持ちに唇を噤んだまま柳沼の病室の前まで来ると、扉の中から人の話し声が聞こえた。
茅島から預かったコーヒー豆代をねじ込んだポケットから手を抜いて、ドアに張り付いて耳をそばだてる。
室内から話し声がする。
一度顔を離して壁にかけられた名札を見ると、以前見舞いに来た時には偽名が書かれていたのに、今は柳沼自身の名前に書き直されていた。
どちらにしろ、柳沼の病室であることには間違いない。
あの冷え切った、暗い牢獄のような部屋に誰かきているのか。
モトイはにわかに緊張した。数度だけ見たことがある能城の、嫌味っぽい顔が浮かんでくる。今会えば、あいつを殺してしまうかもしれない。
モトイは震える手を握りなおして、ドアを開いた。
「不器用」
ベッドサイドに男が座っている。
堅気っぽいスーツを着た、優男だ。
手にはナイフを持って、――林檎を剥いている。
「自覚はあるんだって言ったでしょう、……あれ」
先に気付いたのは、男の方だった。
開いた扉の前で呆然としたモトイに顔を上げて、ナイフを下げる。
その男の視線に気付いたように柳沼がこちらを振り向く。心なしか、微笑んでいるようだった。
「モトイ」
部屋が明るい。
モトイの姿に向き直った柳沼は以前よりも血色が良いようで、髪の艶も昔と同じように見える。
照明も日の射し込みも変わらないはずなのに、部屋は暖かく、青白さもなくなっている。春の陽だまりにいるようだ。
だから柳沼の表情も、柔らかく見える。
「そんな所に立ってないでこっちへおいで。……退院のこと、聞いたんでしょう」
柳沼が布団の下から細い腕を抜いて、いつものようにモトイを招く。
「やあ、君がモトイくん? 話は聞いてるよ。林檎食べる?」
不器用だけど、と柳沼の傍らにいる男が剥き途中の林檎を掲げて見せた。皮を分厚く直線的に削ぎ落としているような、不恰好な果肉が見えている。
「ッ、――!」
考えるより先に、モトイは動いていた。
転がるように部屋の中へ飛び込んで、男の手のナイフを取り上げる。指先を引っ掛けて傷を作ったが、痛みなどない。自分は柳沼に育てられた優秀な武器でしかないのだから、痛みなんて感じなくていい。そう言われて育ってきた。
「モトイ!」
柳沼が声をあげた時、既にモトイは手の中の刃を見知らぬ男の首元へ突きつけていた。
血が滴る。
モトイの指先から。
「――誰、アンタ。柳沼さんの近くに寄りすぎだ」
驚いたように全身を硬直させた男の背後にぴたりと影を寄せて、押し殺した声で囁く。モトイが飛び掛るまでの一瞬、男は微動だにできなかった。大した男じゃない。
「モトイ、離れなさい。彼は僕の友人だ」
ナイフを握りなおすモトイに、男は視線一つ動かせずにいるようだった。押さえた肩がモトイの掌の下で冷えているのが判る。ごくり、と喉が上下した。
「ユウジン? ……柳沼さんに友達なんていない」
柳沼自身が言っていたことだ。
友達なんて必要ないと、柳沼がモトイに教えてくれた。柳沼にとって必要なのは自分の意を汲んでくれる武器、モトイだけだと。そしてモトイにとっても柳沼だけが必要なのだと教えてくれた。
そうじゃないと殺意が濁るから、そうでなければいけないと、柳沼が言ったのだ。
――あんな風に柳沼が微笑むところなんて、見たことがなかった。何年も一緒にいたのに。
「モトイ、ナイフを下げなさい。……彼はお前の手には負えないよ」
モトイに命令をする柳沼の声も、いつもの厳しさがない。まるで言い聞かせるようで、どこか優しい。それが薬の抜けてきた証なのだろうか。
「彼を傷つければ、大事になる。茅英組の人間なら考えなさい」
モトイの指先から血が移ったスーツは、能城が着ていたような高そうなものに見える。ナイフの切っ先が揺れた。
「……柳沼さん、こいつ何なの。茅英組も茅島さんも関係ないよ。また柳沼さんを利用するようなヤツなら、俺は殺すよ。命令して」
茅島だって殺せる。柳沼を守るためなら、もう二度と躊躇ったりしない。
モトイが息を詰めて柳沼の言葉を待つと、ふと柳沼が苦笑した。
さっきから、何かおかしい。
目の前にいるのは柳沼のはずなのに、柳沼じゃないみたいに感じる。
見たことのない表情ばかりで、モトイを頭から押さえつけるような言葉で叱らない。
気紛れにもモトイを甘やかしてくれる時だって、柳沼はどこか病的だった。今は違う。優しくて、柔らかくて、丸い。
「馬鹿だな、そんなのじゃないよ。……離しなさい、モトイ」
みたび言われて、モトイは渋々腕を下げた。ゆっくりと男から離れながら、奥歯を噛む。
モトイに解放された男は大きく肩で息を吐くと、シャツの襟首へ指を入れて呼吸を整えた。その仕草に柳沼が小さな声で詫びているようだ。モトイには聞こえない。柳沼の声が。以前はあんなにも、何でも判っているつもりでいた柳沼のことがまるで判らない。
「いきなり知らない人間がいたから驚いたんだよね? 初めまして、小野塚です。伶の、……友達のつもりだけど」
身構えたままのモトイに、男は気弱そうな顔を暢気に笑ませて向き直った。
敵意に満ちたモトイの殺気をまるで感じ取っていないかのような無防備な顔だ。伶、なんて名前をモトイは知らない。そんな風に呼ばれて呆れた表情のままの柳沼の姿を知らない。
育ちの良さそうな、苦労を知らなさそうな、食べ物にも困ったことがないような、人を殺したこともないような、こんな男を傍に置いておける柳沼が判らない。
モトイは柳沼のために何でもできるのに。
「――奏、モトイと二人きりにしてくれない」
短く息を吐いた柳沼が、男を振り返って言った。男が首を竦める。
「モトイにまだ、お前のことを話してないんだ」
男に話しかける柳沼の姿が、ひどく遠く感じる。モトイが手を伸ばしても伸ばしても、永遠に届かないものになってしまったかのようだ。
今までだってずっとそうだった。
柳沼に触れようなんて思ったことはなかった。
それでも、いつか柳沼からモトイに腕を伸ばしてくれるんじゃないかと思っていた。一つ世話を焼くことができるようになれば、一つ柳沼の望むように人を傷つけられるようになれば、柳沼が褒めてくれるたびに柳沼との距離が縮まるのかと思っていた。
事実、距離は縮まったと思っていた。
それでもモトイはずっと柳沼の武器でしかなくて、友人ではない。
「モトイ、お前に話しておかないといけないことがあるんだ」
柳沼のベッドサイドから腰を上げた男から視線を転じた柳沼が、モトイを手招く。
しかし、モトイはその命令を聞くことができなかった。よろめくように、一歩、二歩と後退する。手から、ナイフが落ちた。
「…………柳沼さん、俺はその話を聞かなくてはいけない?」
「聞いて欲しい」
柳沼が低く呟くように言った。
真面目で、清潔で、深刻な話だ。
モトイは震える唇で聞きたくない、と言い返そうとして、できなかった。黙って踵を返して、病室を逃げ出した。
それが本当でも避けられなくても、モトイが望みさえしなかったことを失うのは辛い。
望むことさえ叶わなかった。
柳沼にあんな風に微笑んでもらうことなんて。
* * * *
「――…………」
モトイの去った病室で、柳沼は深く息を吐いた。
自分がモトイに対してしてきたことに対する代償なのだと思えば、この程度じゃ済まないことは判っている。
モトイは利巧だ。
いつか自分で感情の落としどころを見つけるかもしれない。そこに安里の関与があるのかどうかまでは判らなくても。
しかしそれに甘えたままでは、結局柳沼は今までと同じままだ。
そうと思えばこそ、モトイに話をしておきたかった。
「彼はまるで、伶の子供みたいだね」
かけられた声に顔を上げると、モトイが落としていったナイフを拾い上げた小野塚が汚れた刃を手洗い場で流している。林檎は途中までしか剥けていない。だけどもう食べる気分じゃない。
モトイは、柳沼にとって大切な相手だ。
モトイがいたから、救われていた。今まで生きてこれたのはモトイのお陰だ。生きてこれたから、こうして小野塚と再会できた。
ありがとう、と伝えたかった。
数年間の人生を一緒に歩めたことを本当に感謝している。モトイは役立たずなんかじゃなかったと、何度だって言い聞かせたかった。
「……奏らしくもない。大人気なかったよ」
小野塚ならもっとうまく立ち回れたはずだ。
少なくとも席を外して欲しいと柳沼に言われるまでもなく、モトイに気を使うかと思っていた。
こんな風に思うことも柳沼の甘えかもしれない。それでも、苛立ち半分、呆れる気持ち半分で柳沼はベッドに身を伏せた。
小野塚の暢気な笑い声が頭上で聞こえる。
「伶がずっと一緒に暮らしていた子でしょう? ……心穏やかではいられないよ」
小野塚の低い声を覆い隠すように、林檎の皮を剥くシャリシャリという音が再開された。
またモトイは訪ねてきてくれるだろうか。それとも、もう会うことは叶わないだろうか。
柳沼は白いシーツの上を眺めたまま、小さく溜息を吐いた。