SNOWY ROOM
柳沼が一般病棟に移されたのは数日前のことだ。
薬物治療のために隔離されていた病室で自殺を図り大怪我を負った柳沼は、一般病棟の個室で看護を受けていた。
モトイがそれを知ったのは二日前だった。
それまで柳沼が生きているのかさえも知らされず、自分から茅島に聞くことも出来ずにいた。
柳沼が生きていたという事実と、彼が自分のプライドのために自ら死ぬことを望んでいることと同時に知らされて、モトイは二晩、病院に足を運ぶことを躊躇した。
モトイがこうして茅島の下で生き永らえていることは、柳沼への罪であり、恥だ。だけど柳沼にとって自分がこの世に留まり続けていることは罪でも悔いでもなく、純粋な地獄なのだろうことは十分に察することが出来た。
柳沼はずっと地獄の底に蹲っていた。
モトイは柳沼が自分を見つけ出したことで彼に光を差せるものかと錯覚したこともあった。
だけどそれは出来なかった。
きっと、茅島を殺せていたとしてもそれは叶わなかっただろう。
柳沼が眠っているという病室には知らない人間の名前の札がかかっていた。
ただでさえも都心から離れた小さな病院に、素性を隠した優男の入院。
茅島がここまで徹底して柳沼を隠してくれることはモトイには理解できなかった。
いっそ警察にでも引き渡してくれたら、柳沼は逃げられたかもしれないのに。彼を捕らえる地獄から。
あるいは茅島が柳沼に与える罰が、柳沼をあえて自由にすることだったのかもしれない。
少なくとも柳沼はそう思っているだろう。
「、――……」
見たこともない名前の札を暫く眺めた後で、モトイは呼びかける言葉を持たずに恐る恐る病室の戸を開いた。
生きて柳沼の目に映ることは、ひどく苦痛だった。
一度放たれた弾丸が、再び同じ弾倉に収まることなど有り得ない。自分は柳沼の銃弾になり得なかったのだと認めることになる。
それでも、柳沼の顔を見ずにはいられなかった。
こんなことはモトイのわがままに過ぎないのかもしれない。
それでも、柳沼の無事を喜ぶ人間もいるのだと言いたかった。
この世に留まることが地獄だと感じていたとしても、地獄にいる柳沼に寄り添いたいと思ったモトイだからこそ。
「――……モトイ」
柳沼は起きていた。
目が痛くなるほど白いベッドに掛けて、背中に枕を重ねて上体を起こしていた。
誰からの見舞いの品もない質素な個室は、異常なほど広く思えた。
柳沼はモトイが音も立てずに開いた扉を振り返ると、そこから恐る恐る覗き込んだモトイを振り返って、いつものように――笑った。
「遅かったね、おいで」
布団の上に放り出したままの腕を上げるでもなく、柳沼は僅かに視線を細めてモトイを呼び寄せた。
まるで以前の生活に戻ったかのようだ。
そんなことは有り得ないのに。
モトイは扉を開く前よりもずっと重くなった気持ちを引きずりながら、病室に体を滑り込ませた。
柳沼の部屋の前の廊下は静かなものだった。病院の一番端に設けられた高級そうな個室だ。費用は茅島が負担しているのだろう。自分を裏切った部下のために。
「……柳沼さん」
息が詰まるような空気の中に歩み出て、モトイは柳沼の名前を呼んだ。
唇が強張って、それ以上言葉を紡ぐことが出来ない。ベッドの傍らで棒立ちになったモトイは、視線を伏せた。
「モトイ、お腹空いてるんじゃないの」
冷蔵庫に何か、と続けようとする柳沼は、視線をモトイに向けたきり指先一つ動かそうとしない。
まるで首から下が完成されていない人形のようだ。
以前に比べるとだいぶやつれ、顔色も良くない。中毒症状で苦しんだ様子が容易に想像できた。
モトイは髪の先を揺らして、小さく首を振った。
食事なら、しっかりと摂るようにしている。柳沼がいた頃よりもずっと。
「モトイ、今日は随分おとなしいね」
モトイの様子に堪らなくなったように、柳沼が息を吐いて笑った。
柳沼の長い髪が背中で揺れている。以前のような艶はない。
「まるで、――躾けられた犬みたいじゃないか」
不意に、柳沼の声が低くなった。
はっとしたモトイが柳沼に視線を上げると、柳沼の目が血走っていた。細い顎先が震えている。主人を乗り換えたモトイを殺してやりたいと憎んでいるようにも、また、何かを悲しんでいるように見えた。
どちらなのかをモトイが知ることは出来ない。
「柳沼さん」
モトイは、冷えた指先を掌に握り締めた。
心が押し潰されるようだった。
「柳沼さんは、俺のこと殺したいんでしょ」
それも、別の人間の手で。
モトイは浅い呼吸を往復させながら、病室の清潔な空気に消えていくような声音で尋ねた。
柳沼は自分に死んで欲しいと願っていた。それはずっと、知っていた。
「……そうだよ。君を殺すことが、僕の愛だ」
吐き捨てるようにそう言って、柳沼はモトイから視線を外した。
柳沼のために使い捨てされる命を持つことが許されたモトイは、それでも幸せだと思っていた。
思っていたはずなのに、今、こうして生きている。
二人とも。
モトイは自然と、唇に苦笑を浮かべていた。
「だよね。……死ねなくてごめんね」
モトイの世界は柳沼が全てだった。
柳沼によって作られて、柳沼を中心に回り、柳沼のためだけにあって、柳沼しか映さなかった。
その世界を抉じ開けたのが誰かは判らない。
安里かもしれないし、茅島かも知れない。
綻びが出来たモトイの世界を、柳沼は繕ってはくれなかった。
もし、その小さな穴に気付いてくれていたら、モトイは喜んで柳沼に治して貰いたがっただろう。
今となってはもう遅い。
柳沼も、謝るモトイに言葉を返そうとはしなかった。
「でも、生きてるからこうして柳沼さんのお見舞いに来れるんだよ」
口を噤んで正面を見据えた柳沼の横顔に、モトイは努めて明るい声を出した。
「お前が生きているからって、僕の見舞いに来れるとは限らないよ」
見舞う相手がいなくなってしまっては。
柳沼は薄く開いた唇から自虐的な笑みを浮かべると肩を震わせた。笑っているつもりなのかもしれない。モトイの目には、それは柳沼が苦しんでもがいているようにしか見えない。今度はモトイが言葉を失う番だった。
「僕が自分でけじめをつけなくても、茅島が始末しに来るかもしれない。あるいは、あの男が――」
「柳沼さん」
モトイは握った拳に力を込めた。
命を手放すことがけじめだなんて思うのは間違ってる。
そんなのは、ただ、自分が負わされている地獄から逃げ出そうとしているだけだ。そんな形で逃げたって、楽になんてなれないのに。
モトイは苛立ちにも似た気持ちを押し殺すように一度言葉を飲み込んで、静かに唇を開いた。
「茅島さんは柳沼さんを消したりしないよ。それだけじゃない、能城がもし柳沼さんに手を出そうとしたら、それを理由に戦うことだって――……」
「お前に何が判るんだ!」
不意に発せられた怒号に、病室の窓がビリと戦慄いた。
柳沼は白い布団の上に顔を伏せ、指先を震わせていた。ようやくそこまで血が通っているのだと知ることが出来て、モトイは不思議と安堵感を覚えた。
生きていたらいつか、別の光を探すことが出来る。
もしかしたらずっと苦しいのかもしれないけど、いつか光に出会えると希望を持つことが出来る。
モトイが柳沼に会って、そう思えたように。
「……判るよ。俺だって、何年も茅島さんの下にいるんだから」
茅島はきっと、そういう男だ。
もしかしたら、茅島をそんな風に変えたのはあの弁護士なのかもしれないけど。
少なくともモトイは、そんな茅島を見てきたから、殺すことが出来なかった。そんな茅島を見せたのは柳沼だ。モトイはいつも柳沼の隣で茅島を見てきた。柳沼の目に見えてないはずはないのに。
「俺はあいつの下についたことなんて一度もないよ」
それでも柳沼は、背中を丸め、引き寄せた自分の視座に額を押し付けるようにして引き絞った声でそう答えた。
「それでも、茅島さんは柳沼さんを殺させないよ」
「うるさい! ……もう、出て行け!」
柳沼が握り締めた拳でベッドの上を叩いた。まるで覇気のない、弱い力だった。
柳沼は白い病室に閉じ篭るように膝を抱えるとそれ以上モトイの言葉を拒絶するように顔を埋めてしまった。
以前はモトイを抱え込んでいたその世界に、今は柳沼一人が佇んでいる。
その世界を抉じ開けることが出来るのが、モトイなのか、他の誰かなのかは判らない。
多分、モトイに安里や茅島がそうであったように、誰か一人で出来ることではないのかもしれない。
でもきっといつか、その強張った腕を開くことが出来るんだろう。
茅島もそれを知っているから、柳沼を殺させたりはしない。柳沼自身の手ですら。
「――……また来るね」
踵を返したモトイが背後のベッドに告げると、柳沼の押し殺した苛立ちが聞こえたような気がした。
モトイはそれを振り返らずに病室を出て、そっと扉を閉めた。
人気のない廊下に暫く佇んでいても、扉の中からは何の物音も聞こえてはこなかった。