WINTER NIGHT(1)
枕に伏せた耳の奥で、わんわんと耳鳴りが響いている。
窓の外を行き交う車の、タイヤを蹴る音もこの時期はさすがに少なくなって、やけに静かだ。
椎葉はマスクの中で大きく溜息を吐くと鼻を啜り、枕を両手で引き寄せた。
インフルエンザかも知れない。首がひどく痛むのがいつもの肩凝りなのか、それともインフルエンザ特有の関節痛によるものなのか、今の椎葉には判断が出来ない。
椎葉のいつもと違う様子を心配した安里は、仕事納めの前に年末年始も外来を受け付けてくれる病院を幾つかピックアップしてくれて行った。
礼を言いながらも、椎葉はそんなに大事ではないと高をくくっていた。
ただの風邪だ。
この一年の疲れが溜まっていたんだろう。緊張の糸が切れた瞬間に発症するなんてことは、よくあることだ。
とは言え、こんな高熱を出すとは思っていなかった。
何年ぶりだろう。足元が覚束なくなってからでは遅いと枕元にペットボトルを用意して布団に潜り込んだが最後、どうにも動けなくなってしまった。
全身からは汗が滲んでいるのに、どうしようもなく悪寒が走る。脳味噌の表面まで鳥肌がたっているようで、気持ちが悪い。
事切れるように眠りに落ちたのが午後七時くらいで、ふと目が覚めた今、枕もとの時計を見上げると時刻はまだ零時を回っていないようだった。
それとも、時計の針が一周した結果の時刻なのではないかということも充分に考えられる。それくらい、深く眠っていた。昏倒していたといっても良いくらいだ。
咽喉の渇きを覚えて椎葉がペットボトルに腕を伸ばした時、枕もとで携帯電話が緩やかな点滅を繰り返していることに気付いた。
事務所からベッドまで、どうやって辿り着いたのかも正確には覚えていない。倒れこむように潜り込んだことは覚えているが、服はどうやって着替えたのか、携帯電話を持ってきたのかも全く記憶にない。
体に染み付いた習慣というのは恐ろしいもので、それでも椎葉はいつもの寝間着に身を包んでいたし、携帯電話もいつもの夜と同じ場所に鎮座している。
布団から伸ばした腕がゾクゾクと骨の芯まで怖気に震えるのを感じながら身を起こすと、椎葉は先にペットボトルのキャップを捻った。
今、熱が何度まで上がっているのか判らない。
眩暈を感じているようなのも、高熱のせいなのか水分補給が足りないせいなのか。
少し落ち着いて着たらお粥でも作って、とにかく解熱剤でも飲まないと病院まで行くこともままならない。
ペットボトルの口に直接唇を付けてそこまで考えた瞬間、椎葉は首が痛むのも忘れて携帯電話を振り返った。
熱で朦朧としていた頭に、日が差し込んだようだった。はっとした。
「――!」
唇を湿らせたミネラルウォーターの水滴を舐め取り、暗がりに携帯電話を開く。
そこには三件の着信があった。全て茅島だ。
椎葉は仕事納めの日を気にかけていた茅島のことを思い返しながら、いつもより重く感じる頭を枕に沈めた。
しまった、せめて一言連絡しておくべきだった。
今日は体調が思わしくないからでも予定があるからでも、ただ会いたくないとだけでもいい。
世の中の多くの企業が仕事納めを謳う今日という日に、茅島が椎葉に連絡をしないなんてことは考えられなかった。
いつもなら、それも気恥ずかしいような嬉しいような、幸せなものであったはずだが、今、この状態で会いたいとは思えない。
風邪を移してしまうことも心配だし、自分は風呂にも入れなくて汗をかいているし、何よりも、みっともない。
生物として弱っている姿を、彼のような強い男に見せたくない。
見栄でも何でもない、純粋に、自分が惨めになるような気がした。
それに、彼を困らせてしまうだろうとも思う。
こんなにぐったりとして動けない椎葉を目の前にしたって茅島はキスも出来なければ、抱くことも出来ないのだから。それでも彼は――自惚れに過ぎないかもしれないが――心配だけはしてくれるだろうと思うから、それが心苦しくて、どうしようもない。
嘘でも何でもいいからとにかく連絡をしないでいる不義理は避けたいし、しかし、会いたくもない。
彼に会う時は、少しでも彼と対等な立場でいたいし、みっともない姿を晒したくない――
椎葉はせめて茅島に不義理を詫びる連絡の一つでも、と考えて携帯電話を握り締めたまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
気がつくと、台所で湯の沸いている音がした。
相変わらずベッドルームは暗いままだが、リビングには薄明かりが灯され、その向こうのキッチンには誰かいるようだ。
「――……?」
咳込みながら椎葉が身を起こすと、キッチンからは低い鼻歌が聞こえてくる。
しゅんしゅんと音を立てて湯気を上げるヤカンの息遣いは、その音を聞いているだけでも湿度に咽喉を癒されていくようだ。
覚束ない足元を確かめるようにベッドを降りて、壁に手を這わせながらリビングを覗く。
住居不法侵入を声高に訴えるには、響いてくる小さな鼻歌が暢気すぎる。
背中を屈めて咳を洩らしながら椎葉が覗き込んだ先には、大きな背中があった。眼鏡を外した目を凝らすまでもない。
椎葉の部屋に合法的な方法で侵入できる人間は限られているのだ。
事務所から上がって来ることが出来る安里か、――あるいは、茅島のどちらかだ。
「先生」
間接照明を一つ点けたきりの薄明るいリビングの向こうにその人の姿を見るなり、椎葉は思わず、寝室の戸の前でずるずると腰を下ろしてしまった。
驚いた。
今、ひどく感覚が鈍ってしまっているけれど。
「すみません、起こしてしまいましたか」
キッチンで包丁を手にしていた茅島が、崩れ落ちた椎葉の姿を振り返ると慌てたように飛び出してきた。しっかりと包丁を置いて。
「茅島さん、……こんなところで、一体何を」
頭が重い。
座り込んだフローリングの上で額に掌を押し当てると、前髪が汗に濡れて張り付いている。耳は詰まったようになって、茅島の声もいつものようには聞こえないし、唇だって熱のせいでひどく乾いてしまっている。
「安里に先生の具合が悪いようだと聞いたものですから」
椎葉の元に駆けつけてきた茅島の逞しい腕が、汗に濡れた椎葉の肩を掴んだ。
茅島に触れられた自分の躰が熱いのか、それとも冷たいのかすら椎葉には判らない。
安里は茅島に自分のことを心配してわざわざ伝えたのか、それとも電話に出ない椎葉を心配した茅島が安里に聞いたのだろうか。
どっちにしろ同じことだ。
「――不法……侵入ですよ」
こんな姿を茅島に見られたくないと思っていたのに。
椎葉の頭を肩口に押し付けるようにして抱き締めた茅島の胸からは、暖かい香りがした。たぶん台所で炊いている、お粥の香りだろう。
茅島にそんな料理が出来るなんて意外だった。今まで知らなかった。
「恋人が病気で倒れているのを助けに来てはいけないなんて、六法全書に書いてありますか」
力ない椎葉の体を軽々と抱き上げた茅島の戯言に、椎葉は首を振った。
だけどこんなみっともない姿を見られたくなかった。
ただでさえも椎葉は何一つ茅島に敵いはしないのに。
椎葉を再びベッドの上へと連れ戻してしまった茅島は、ベッドサイドの灯りを小さく点けると上掛けをしっかりと椎葉の顎の下まで引き上げてから、椎葉の前髪を額から引き剥がすように撫でた。
「今お粥を作っていますから、もう少し待っていてください」
椎葉の朦朧とした顔を覗きこんでくる表情は、まるで恋人というよりは保護者のようだ。
椎葉は視線を伏せると、小さく唇を噛んだ。
自分がしっかりと体調管理を出来ていれば、今頃茅島はこのベッドの中にいたはずなのに。椎葉だけを布団に包ませて、茅島を追い出してしまったのは自分の不甲斐なさだ。そう思うと、椎葉は泣き出したくなってきた。この感情の昂ぶりも熱のせいなのだとしても。
「先生」
枕の上で寝返りを打ち、茅島から顔を逸らした椎葉の姿を見た茅島が、苦笑を洩らすように呟いてから、腰を上げた。
また台所に戻ってしまうのかと思ったその時、小さなルームランプに浮かび上がった茅島の影が近付いてきて、熱で火照った椎葉の頬の上に冷たい茅島の唇が落ちた。
「……っ茅島さん、風邪がうつって……」
驚いてその顔を見上げると、茅島はわざとらしく眉根を寄せた表情で椎葉の額に額を合わせてきた。
慌てて息を飲む。
風邪やインフルエンザなら、空気感染だ。せめてこんな間近で自分の呼気を吸わせてしまわないようにと――冷静に考えれば馬鹿げた発想だが、椎葉はとっさにそう思って、唇を閉ざした。
「少しは私のことも頼ってください」
熱で焼け付きそうになっている椎葉の額に自分のそれを合わせた茅島は、掠れた声でそう告げると、鼻先を擦りつけるようにして唇を上らせた。
椎葉の潜った布団の脇に腕をついて覆い被さった格好は、どこか椎葉を安心させる影になった。
さっきまで一人で包まれていた暗がりとは違う。
意識していなかった肩の力が、氷解していくようだ。
「あなたのために食事を作ったり、水や薬を運ぶくらいのことは私にも出来ます」
汗の滲んだ椎葉の額を短く吸い上げる茅島に、椎葉は布団の端から指先を探り出した。それを茅島が、しっかりと握り返してくる。
「病院へだって、私が責任を持って連れて行けます」
茅島の指先は暖かかった。
熱がある椎葉よりも、よっぽど。
椎葉は茅島の方へ向けて寝返りを打ち直すと、枕を揺らすようにして小さく首を振った。閉じた目蓋が重く、世界を塞いでいく。体が闇に解けて、意識が混濁していくようだ。
だけど茅島の指先の感触だけは確かにある。
茅島も握り締めた椎葉の指先から、手の甲へとゆっくり撫でてくれている。
「そんなこと、……要りません」
薄れていく意識の中で、椎葉は自分の口元が微笑んでいることを自覚していた。
呼吸は浅く、相変わらず苦しい。
鼻も詰まっているし、自分はまったく茅島に迷惑をかけるだけのみっともない病人だ。
だけど、胸の中がぽかぽかと暖かくなって、明るくなっていくようだ。
お粥も薬も、病院も要らない。
「――茅島さんが傍にいてくれれば、……」
それだけで、自分は幸せなのだから。
そこまで言葉に出来たかどうか判らない。
気がつくと椎葉は茅島の指先を握り締めたまま再び眠りの中に落ちていた。
愛しい人の腕に抱かれた、幸せな夢の中へ。